2011、3月12日、PM 2−3時頃 原発が爆発した。
後になって、あの二台のライトバンは東電関係者、
防護マスクをつけていたから幹部クラスだったに違いない。
その後、15日まで「直ちに健康に被害がない」と
言われ続けていたことになる。
15日の夕刻、招集がかかった。
役場、課長クラス、議員、警察、消防関係者、
集まったのは12、3人。
議会本会議室に集まったが、天井が全体的に崩れ落ちそうになっていた。
村長が危険な状況になったが避難先場所が見つからない、
富岡町と協議の結果、自主避難することにしたが、みなさんの了解を得たい、
というものだった。
村長は半ば涙声である。
その後、住民に自主避難を通告した。
緊急事態で、住民の皆さんは、それぞれ、
親戚や知人を頼って西方面へ、出発している。
3月15日、夜になっていた。
長引くとは殆どの人は考えていなかったから、
身の回りのものだけで出発したのだった。
その頃は、まだ、思うようにガソリン給油もできない時だったと思う。
私は、住民の皆さんが避難した最後に思っていたから、そのまま自宅に留まった。
次の朝招集があって、行くと、郡山のビックパレットが受け入れ先となったので、残りの人たちを役場のマイクロバスなど、ピストンで移動する、というものだった。
とりあえずみんなほっとした。
しかし、
後に、この川内村より、郡山など中通の方が線量が高い事がわかったのだった。
私は、行政区を一回りし、288号線から福島市に向かうことにした。
そのころは仙台の息子と連絡もできて、仙台に向かうことにした。
真っ暗になった、誰もいない、電気のついていなみんなの家を通り過ぎながら、涙が出てきそうだった、この暗闇に、私の心も暗く侘しい気持ちが押し寄せてきた、その後、どうなるのだろう、、。サバイバル力はあるから、確実に生き延びられる確信はあったが、社会がどう変わっていくのかが不安であった。
ひとまず、役場に寄って挨拶しておこうと思い、役場に、村長以下4、5人、
何故か、談笑しているのが不思議だった。
大仕事を終えてほっとしたのだろうか、、。
そして、288号線に、向かう。
都路村を通るも、やはり真っ暗、、
新大橋に近づくと自衛隊車両が3、4台停車している、
車内が明るいので、防護服に着替えているのが見えた。
そこから、フクイチに向かうのだろう、
防護服ということは、その先は放射能危険地域なのか、、
暗澹たる思いで、福島に向かった。
次の日、息子と無事合流できたのだった。
2021 6/6