遅ればせながら「大和心を語るねずさんのひとりごと」の「日を背負って戦う」の記事と、もう一つは、西鋭夫氏の「誰も云わない明治維新の真実」の為のネット広告記事を紹介させて頂きます。
特に西氏の記事を読むと、マッカーサーの〝大人げない執拗な恨み”のすさまじさにぞっとしますが、こういう「恨み心」の執拗さが日本人には想像もつかないことだったのだな~と今更ながら痛感します。
かつて、信長と武田信玄が戦った折り、どちらも日章旗を本陣に高々と立てて戦いましたが、これは、両軍ともに、我こそは日本を背負うものなりという断固とした意思表明であったわけです。
このときに掲げられた日章旗のうち、武田信玄が掲げたものがトップの画像の日輪の御旗です。
この御旗は、甲州武田家の祖となる新羅三郎義光の父頼義が。第70代後冷泉天皇から下賜されたものです。
これこそ源氏の直系を示す旗として、武田家ではこれを家宝とし、御旗は「絶対に従わなくてはならない最も神聖なもの」とされて代々伝わったのです。
なぜそうなるのかといえば、それはただ天皇から下賜されたから、と一般に説明されます。
しかし実はそれだけではありません。
日輪の御旗を背負うということは、天皇を背負うということであり、天照大御神を背負うということであり、民を背負うということです。
だからこそ甲州武田家では、御旗には絶対に従わなければならないとされました。
なぜなら天照大御神とその御子であり代々続く天皇こそ、民を「おほみたから」としている存在だからです。
つまり、「日を背負う」ということは、民の愛と喜びと幸せと美しさ、そして豊かで安全で安心できる暮らしと未来を背負うといことなのです。
それこそが正義であり、天下の大道であり、「日を背負う」ことです。
だからこそ戦いに臨んで日章旗を掲げたのだし、その日章旗を家宝としたのです。
近年、その日章旗を否定したり拒否する人たちがいます。
日章旗を否定するということは、たとえどのような言い訳をしたとしても、民衆の愛と喜びと幸せと美しさ、そして豊かで安全で安心できる暮らしと未来を否定するということです。
端的に言えば、民の幸せを否定しているわけです。
彼らは民の幸せを否定して、いったい何をしたいのでしょうか。
誰かが日章旗はいけないものだと言ったから?
ではその誰かは、何のために日章旗を否定しているのでしょうか?
国家最高権力よりも上位に国家最高権威をおいたのが、我が国の統治の根幹です。
なぜなら国家最高の存在が権力なら、権力者は民衆からの収奪がいともたやすくできてしまうからです。
ところが我が国には、その政治権力の上に、国家最高権威がある。
その最高権威が、政治権力を揮わず、ただ民衆を「おほみたから」とします。
政治権力者は、最高権威者の下にあります。そして「おほみたから」に対して責任を持ちます。
ですから我が国では、権力と責任は常にセットです。
これが古事記に書かれた「シラス統治」です。
権力者が最高の存在となると、最高の存在は責任を持ちません。
ということは、権力者が国家最高の存在なら、それは無責任体制だということです。
しかもその最高権力者は、軍事を統括するのです。
つまり軍が、無責任に運用されるわけです。
これほどおそろしいことはありません。
人々が社会を営むためには、権力は必要です。
その権力のことを、我が国では古い言葉で「ウシハク」と言います。
「ウシ」は主人、「ハク」は、佩くで、自分のものにすることをいいます。
そしてその「ウシハク」は、「シラス」の中に内包させて用いるべしというのが、古事記に書かれた我が国の根幹となる国家体制です。
さて、「日輪を背負う」ということは、太陽の恵みを背負い、民衆を背負うことを意味すると申し上げました。
実は、そのためこそにあるのが国家であるというのが、上古の昔からの日本人の思考です。
国家は民のためにある。
そのシラス統治を護るということが「国体護持」という言葉になります。
そして国体を護持するために戦い、散っていった人を顕彰し、慰霊するのが靖国です。
なぜなら、国を靖んじるということは、国体を護持するということと同義だからです。
先日、宮澤佳廣著『靖国神社が消える日』という本をご紹介しましたが、そもそもの靖国神社の位置づけがそうした意味にある以上、心ならずも日に向かって戦ってしまった人は、靖国では祀られません。
古事記は「武」ではなく、「たけ」という語を用いています。
その「たけ」は、どこまでも日輪を背負うものです。
さからえば、それは「賊軍」です。
このことは、実は結果オーライの「勝てば官軍」とは意味が違います。
日を背負った「官軍」だから勝つのです。
勝ったから官軍ではないのです。
神倭伊波礼毘古命の抄にあります。
それは、我が国の初代天皇の神武天皇のことです。
古事記は、神武天皇のことを神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれひこのみこと)と書いています。
古事記に「伊波礼」は当て字だと注釈がありますから、これは「言われた毘古」、つまり「言われた男」ということです。
神倭(かむやまと)は、やまとの神です。
通しで読めば、この名は「やまとの神と呼ばれた男」という意味とわかります。
その神倭伊波礼毘古命は、畿内にやってきたときに、那賀須泥毘古(なかすねひこ)の一団にいきなり襲撃されます。
この段階で神倭伊波礼毘古命には、襲ってきた一段が、悪者なのか、ただ警戒しただけの民なのかがわかりません。
とりあえず防戦するのですが、兄の五瀬命(いつせのみこと)は、このときの矢傷がもとでおなくなりになってしまいます。
いきなり矢を射掛けてきた者たちが、護るべき民なのかそうでないのか、この時点では識別がつかなかったのです。
だから「日に向かって戦ってしまったのではないか」と兄は心配しています。
けれど、「悔しい」とも述べています。
その後、神々の意思が明確になります。
彼らこそ倒すべき相手、つまり「日に背く者たち」であるとはっきりとわかったのです。
そこで神倭伊波礼毘古命は、あの有名な、
「撃ちてし止まん」
という歌とともに、一気呵成に「日に背く者たち」を倒しています。
これが我が国おける「たけび」です。
「たけ」は、「日を背負って正義をうち建てる」ことなのです。
China式の「武」との違いがここにあります。
音読みの「武」は、矛を止めると書きます。
しかしそう言いながら、実は、武装して罪なき人までも襲って利得を得ることに用いられてしまいます。
我が国の「武」がそのような意味にならなかったのは、ひとえに、神語の時代からある「たけ」の概念が先行していたことによります。
日本文化は、Chinaの影響は受けました。
しかしそれは、現代日本が西欧文化の影響を受けていることと同じです。
影響は受けていますが、その根底には、どこまでも日本文化があります。
日本文化という土台の上に、外国の文化を日本的に変形しながら工夫して受け入れてきているのです。
ですから現代日本人が西洋文化の影響を受けながら、西洋人になっていないのと同様、古代から近世の日本人も、Chinaの文化の影響を受けても、Chineseになってなどいないのです。
なぜなら、日本人が根底に日本文化を持つからです。
最近、日本映画や日本のテレビなどの現代もののドラマや時代劇などの多くが、まったく日本的でない近隣国のの影響を受けていると言われています。
ところが、その影響が濃くなればなるほど、日本映画は日本人のみならず、諸外国からも見放されていくし、テレビの視聴率もぐんぐんと低下します。
ところがそうした隣国の影響を離れて、まったく我が国独自の目線で作られたアニメ作品などでは、たとえばアニメ映画「君の名は」や、「聲の形」がそうですが、瞬く間に若者たちの心をとらえ、口コミで世界的な大ヒットとなっています。
まさに、日本人も、世界の人々も、そのもとからある日本人の持つ日本文化をこそ求めているのです。
そこに気付かなければ、日本映画にもテレビにもおそらく未来はありません。
私たち日本人は、日本にもとからある文化を土台として、その上に海外から様々な知識を得て、さらに創意工夫を重ねて、日本文化を築いてきました。
迎合したのではなく、工夫したのです。
だからこそ、日本があります。
私たちは、日本人であるということと、これまのご祖先たちの事業に、大きな誇りを持つことができる世界でも稀有な民族に生まれて来たのです。
これはとっても幸せなことだと思います。
お読みいただき、ありがとうございました。
1941年12月8日、真珠湾攻撃と同日、マッカーサーは、アメリカの植民地だったフィリピンで日本軍を迎え撃つ。マッカーサー軍15万人に対し、日本軍はその3分の1にも満たない4万3000人。マッカーサーは余裕で撃退できると自信を持っていた。
しかし日本は、初日の爆撃で大きな成果を上げ、フィリピンの航空戦力を壊滅まで追い込む。その状況にマッカーサーは、「日本軍の戦闘機は、ドイツ人パイロットが操縦していた」と本部に報告するまで日本軍を低く評価していた。
ところがその日本軍の怒涛の進軍は止まらず、マッカーサーは侵攻からわずか1ヶ月で首都マニラを明け渡すことになり、マニラ近くのバターン半島での防衛戦しか残された道はなかった。
小さい半島で大軍を抱えることになったマッカーサー。致命的なことに食料がなく、飢餓と疫病、そして連日の日本軍の猛攻に誰もが衰弱していった。「このままではマッカーサーが捕虜になりかねない」と見かねたワシントン側が、マッカーサーにフィリピン脱出を命じた。
悩んだ末の決断ではあったものの、司令官たる者が部下を捨て、なんと8万人以上もの捕虜を残して、マッカーサーは暗く狭い魚雷艇に乗って戦地を脱出していった…
マッカーサーの父はフィリピンの初代総督で、彼自身もフィリピンで家族と生活し、フィリピン陸軍元帥に就任。第2の故郷とも呼べるような土地で、日本軍に追い詰められ大量の捕虜を置いて逃走した経験は、マッカーサーの軍人人生において「大汚点」となった。しかもその汚点をつけたのは、彼にとって格下のはずだった「まさかの日本人」。
その胸をえぐるような悔しさを表した行動が、2年半後の1944年から見られる。
既に日本は大戦力を失い、サイパンも陥落。アメリカの参謀本部の提案は、無防備な日本本土を攻撃してトドメをさすか、日本軍が大軍を配置するフィリピンを素通りして台湾に侵攻するかだった。
しかしマッカーサーは、自分に大汚点をつけた日本人への恨みを晴らすために、自分の思い入れがある土地を奪還するためだけに、フィリピンへの侵攻を進めてしまう。
その数、マッカーサー軍125万人に対し、日本軍40万人。
出だしのレイテ沖海戦で日本海軍が大敗し補給路を断たれてからは、フィリピンの日本軍は完全に孤立した戦いに。どの戦いでも日本軍は敗れた。しかし食料も、武器も、弾も、清潔な水もないのに、敵に決定的な勝利をなかなか渡さない日本軍。
どれだけしぶとく最後まで戦ったかは、フィリピンでの日本兵の死亡数が十分に物語っている…
40万人いた日本兵のうち、戦死したのは34万人。負傷者も合わせたら無傷だった者はいない。ほぼ全滅になるまで、飢えと疫病にまみれながら、日本軍は徹底抗戦した。
これは、マッカーサーが逃走した先のフィリピンの戦いとは真逆。あのときのアメリカ軍残兵はほとんどが降伏して捕虜となっていた。抗戦状態も長引き、日本は補給もないのに終戦まで10ヶ月を耐えた。
フィリピン制圧後もマッカーサーの日本への恨みは収まらず、大汚点を付けられた時の指揮官・本間中将と、復讐戦時の指揮官・山下大将の2人を、弁護なしのリンチ裁判のような形で処刑に追い込んでいる。
山下大将はフィリピンで絞首刑にされたが、軍服の着用も許されず、囚人服のままの処刑だった。遺体は刑場付近に埋められたらしいが、現在も所在は不明。本間中将もその後銃殺刑にされたが、処刑日時は1946年4月3日午前0時53分。ちょうど4年前にフィリピンで、本間中将がバターン半島に籠るマッカーサー軍に総攻撃の命令を下したのがこの日時だった。
マッカーサーの大人げない執拗な恨みが、滲み出てると言うしかない。
しかし、こんなに日本に恨みを持つ人物が、日本占領政策のトップに就任したとは、私たちにとって最大の不幸だったのかもしれない…。
マッカーサーは1941年からずっと日本人について考えてきた。いや、もっと前からかもしれない。マッカーサーは小さい頃父親と共に来日し、日本軍の英雄である乃木希典や東郷平八郎と会う機会すらあり、その生き方に感銘を受けた日本通でもあった。
そんなマッカーサーだからこそ、日本人の強みの原点は既に見抜いていた。
それは、日本人特有の精神文化、規律のとれた習慣、周りを思う道徳心。
この強みこそ、日本人の弱点になってしまった。「これを奪うことが日本を再起不能にする。二度とアメリカに歯向かわない国にする」と確信したマッカーサーは、これを教育で徹底的に破壊することに力をいれる。
そのスピードは早く、占領開始から2週間もせず「国体」と「神道」の抹殺を命令、2ヶ月後には現行教科書の使用を停止、4ヶ月後には教育界やマスコミから都合の悪い人物を公職追放で駆逐、8ヶ月後には不適格な思想を持つ教職員を排除するための審査を開始。この審査にあたっては、全国130万人もの教職員が対象になった。そして1年後には、高等師範における英才教育の廃止なども行われている。
そして、明治より学校教育のベースになっていた「教育勅語」が、「軍国主義を生む」として捨て去られる。だが、それを学んできた私たちの祖父母、その親兄弟たちは、そんなに好戦的な恐ろしい人たちだったのだろうか?
さらに、同じく明治から日本が「欧米列強に牛耳られまい」と取り組んだ、日本的なイデオロギーや列強の研究などを扱った書物が、7千冊以上GHQにより葬り去られた。先人の叡智の結晶とも言えるものが、現代の私たちの目には決して触れないようになってしまった。
こうして、過去から受け継いできたものを全部捨て去って、日本の教育が空洞化したところで日本人に教えられるようになったのは、「歴史の上澄み」と「平和を愛する民主主義」。
これでは日本が精神的主柱をなくしてボロボロになるのは必然だった。「過去を失い自分の国のなりたちがわからない」とはつまり、「自分のこともわからない」ということ。アイデンティティを喪失し、目隠し状態になった日本人。これは、マッカーサーの計画通りになってしまった。
結果として私たちの多くは自分の国の歴史、特に近代史を「なんとなく」しかわからない状況になり、しかも「侵略戦争をした」とする後ろめたい気持ちすら埋め込まれている。なので外国から謝罪を求められれば、毅然とした対応が取れず、何度も何度も謝罪してしまう。
日本政府や高官が戦後、公式に謝罪に触れたのは45回。非公式ならそれ以上になる。
「あの太平洋戦争はなぜ起きたのか?」 こんな大事なことも私たちが話したり考えたりすることすら、タブーのように扱われてきた。
先人たちがどうしてあんなに血を流したのか、何のために戦ったのか、どうしてあんな戦い方ができたのか? それに答えられないままでいる。
一般的には、軍部の一部が暴徒化して、侵略行動を激化させていったとされている。これは、マッカーサーが実質責任者だった東京裁判の考え方でもある。
しかし果たしてそれだけだったのか? 資源もない日本が国力と国民を削ってあれだけ大きな戦争をしたのは、ただの一部の人間の利己的な侵略のためだったのだろうか?
その答えのためにもう少し時代を遡ってみれば、太平洋戦争前も、日本は驚くほど多くの大戦争をしている。太平洋戦争、日中戦争、第一次世界大戦、日露戦争、日清戦争…。そしてその前は国内でも西南戦争と戊辰戦争が起きている。
しかしその前はといえば? 天下泰平の江戸時代は260年も戦争がなく平和だった。その日本人が、江戸が終わってから明治維新を経て、終戦に至るまで約70年。決して豊かな国ではないのに、多額の借金を背負い、多くの犠牲を出して、人が変わったように戦争に走ったのはなぜだったのか?
明治以降に日本人が作り上げた教育勅語や数々の書物をマッカーサーがあそこまで徹底的に葬り去ったのは、そこには何か知られたくない秘密でもあったのだろうか?
日本が数多くの戦争に走った起源である明治時代。そのころに育まれた精神や知恵を失った日本人。この空白には、一体何があったのか。
これを紐解いていくには、この時代の始まりである明治維新に重要な鍵があるのが必然的に見えてくる。しかし、マッカーサーが作り出した空白を抱えたままの私たちの目には、それが見えなくなってしまっている。あの革命の本当の姿は、どんなものだったのか?
タブーを破って私たち日本人の歴史を新たに見つめ直すとき、マッカーサーが仕掛けた目隠しがはずれ、彼が恐れた本来の日本人が目覚めてくるのではないだろうか。
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