昔は終戦記念日と言われていた記憶がありますが、変わったのはいつか思い出せないでいます。
むろん、そのキッカケすら記憶にないのですから、わずか十年、二十年過去のことさえ記憶から消えてることを考えると、「忘れる」ということの恐ろしさを思い知らされるような気がします。
こうなると、「忘却」などという語彙は、詩人や歌人、あるいは散文家が、相当なエネルギーを投入させたことにより、当初は単なる、状態、状況を表現する名詞が、感情が移入した名詞に特化されてのではと、勝手思ってしまいます。
きざったらしく、「忘却とは。。」何てェことは言う気は毛頭ありませんが、忘れることで知らされる、オツムの加齢に焦りを感じます。
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おりしも今日は終戦の日。
つまりポツダム宣言を受諾したことの詔書を、昭和天皇が、玉音放送として知らされた日であるから、事実上の降伏を知らしめた日であり、日本語の語感としては喜ばしいニュアンスが重なる記念日の使用は不適当と、誰かが印象操作をして、風化させたのかもしれません。
kazanの想像が当たっていれば、その「誰か」は、とても、いい仕事をしたのではと、高く評価したくなります。
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上段トップの、左腕に「◯◯報国隊」の腕章をまき、丸刈りの青年が、玉音放送を聞くシーンの画像は有名です。
テレビのドキュメンタリー番組や、ドラマや映画で宮城事件~玉音放送の過程で挿入されるトップの画像は昔から脳裏に焼き付いています。
毎度のことながら、戦争で命を落とすことはなかった、実在の青年の詳細に興味が行きます。
年齢は20歳前後、体つきは強健、黒のセルのメガネ。
陸軍の主計下士官であった、実父は近視であったので、当時の写真を見ると同じような黒セルの丸メガネをしており、東条英機大将(総理)をはじめ、当時の著名軍人の画像を見ても、同様のデザインのフレームを使っています。
おそらく、これが官給デザインで、しかも戦時統制下で、それ以外のものは入手できなかった背景があるのではないのか。。
今まで、幾度となく見てきたこの青年は、戦後の復興期からどのような人生を歩んだものか?
いつも、「この人は誰」と興味が行きます。
当時20歳と仮定すれば30年後50歳で、時は1975年ですから、1971年のニクソンショック後の円高ながら、東京五輪が既に終わり、天皇が史上初めてアメリカ合衆国を公式訪問 された年ですので、経済、社会が一気に右肩上がりになった時代です。
kazanが勤務した会社の部長クラスの上司と同じ世代と想像できます。
モーレツに、ヒヨッコ同様のkazan世代を叱咤し、ケツや背中を引っ叩いて、業績をあげ、日本経済の原動力になった世代ではないですか。
頻繁にゴチにもなりましたので、今でも感謝もしてれば、本当に尊敬します。