今日は、逝ったマダムこと、マダムkazanの命日なので。。夕方に読経するのが習慣。
当家は代々東本願寺の末寺・善法寺のお世話なっており、慣わしで、分骨は京都・東本願寺で供養という決り事があり、一応つつがなく行ったのが数少ない、ささやかな自分の一面と自負。
納骨の時は、京都駅で、マダムの実姉の和子姉と待ち合わせ、本願寺へタクシーを走らせた記憶があり、そのマダム思いの実姉がの訃報を昨年10月に姪から知らされ、自分では想像もできない程のショックを受けて、まだ半年も経過してないと思うと神妙な気持ちになってしまいます。
家族思いの深い姉が逝ったことで、マダムの両親、姉上、弟と、ファミリーが全員鬼籍に入ったショックは、当時、到底想定外のことであり、ショックと言うより衝撃であったことをいまでも鮮明に記憶の中に。
あの時以来、今回の自分の退院まで自主ボイトレを休止したということもあり、今にして思えは、歌う気分も、気力一気に消滅していた現実を思い出しながら、それを、改めて今刻み込もうとしているような気がします。
仲の良い、円満で正直な理想的な家族が、あっという間に全員が逝ってしまい、残るは、その二世、三世になっていると思うと、命の、人生の儚さを思い知らされた昨年後半でした。
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一周忌を仏教の世界では、「小祥忌」ということも、かって、我々兄弟姉妹(義兄弟姉妹)が全員が元気な頃、マダムの実家に日暮里の本行寺のご住職が、決まって法事の説教の切り口に使う言葉であることも、あのファミリーの一員になった時に、幾度となく法事で耳に刻み込んだ一言でした。
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今にして思えは、三周忌にあたる「大祥忌」に姪や甥と一同に会えることが、逝った家族への残った者ができる供養と自身に言い聞かせつつ、帰国できる日を待ちわびています。
OGGとなる、こんな湿っぽい話を打ち込んでいる時も、つい涙腺が緩くなるを感じて、日頃、左ストに対して威勢のいいことを発信してる自分を瞬間忘れてしまいそうになりますから、不思議です。
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アイキャッチ画像は、自宅に近い公園の池に咲く蓮の花を、持っていたスマホで接写したもの。。 日付が2017年3月7日とありました。今日がまる5年の満願日になるのを偶然チェックできたようです。 接写レンズはスマホ用簡易脱着式で廉価品でした。