人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

光は神のいのち

2010-12-03 11:59:13 | スピリチュアル
光は

みちている

だから

何も心配しないで

光のなかに

入るようにしなさい




光は神のいのちです

そして

人間の本心は

その光を

受け、みちさせている

生命の源流なのです

源流にむかって

祈るほどに

私達は

神と一体になって

真実の人間のすがたを

あらわすのです

宝について

2010-12-03 11:41:06 | スピリチュアル
 私のところへ色んな人が来ます。まあこういう言い方をすると

誤解する人もあるかもしれないけれども、地位のある人も来るし、

お金を持ってる人も来るし、社会的に名誉をもってる人にも会った

ことはあるし、かと思うと、その日をどうやってお米代を出そうか

といって悩んでる悲しんでる人も来ましたし、未だに色んな人の姿を

こちらから見ておりますが、つくづく思う事は、余分なものを

持たないことの清しさ。


 ところが、人間というのは余分なものを持ちたくなる。で又、

持ちたいと想う時、持たされている時というのは、余分なものだとは

思わないですね。

 例えば、会社に勤めていて、月給が上がっていく。上がっていく

ことはそれで生活が楽になってくる事だから、それは安心立命の元

なんで、良かったですね、としか言い様がない。

 普通ならばそうなんだけれども、段々段々10万円で生活して

いたものが20万になって、20万円で生活していたんが30万に

なっていくと、これは、30万の生活に慣れると、今度逆に、

20万にする10万にするというのは非常に難しいんですね。


 今までの生活の習慣といいますか、これだけの経済でこれだけの事を

やっていくというのが、もう多ければ多いことに慣れているから、

それを減らしてやっていくというのは、何か自分の立場とか自尊心とか、

今までの経歴とかいうものも全部否定されるような気になる。

 だから、なかなか諦めていくということは難しい。経済一つとっても、

人間というのはなかなか不自由に出来ているんです。


 たとえば、欲というものは良い欲と悪い欲とあってですね。悪い欲

というととらわれているみたいだけれども。

 何が何でもお金が欲しい地位が欲しい名誉が欲しいというので、

ガリガリ亡者の様に、そういう気持ちでものを求めていって

手にしている人というのを見ると、中身がカラッポと申しますか、

外見だけ色々あるんだけれども、中身が非常に空虚な感じがする。

 物質的に色々持っていても何か非常に虚しい。何によってこの人の

心は救われていくんだろうかと気になる。


 そういう事をつくづく考えてみると、人間がどういう時に一番

自由になるんだろうか、どういう時に朗らかになるんだろうか

ということになると、自分を忘れている時ですね。

 自分が何処に属していて、どういう給料をもらっていて、あるいは

今どういう立場で、どういう顔して生きていくか、生きていかなきゃ

いけないか、そういう色んな煩いを忘れていって、そして、本当に

赤児の様な本当の自分の顔を出してる、その一瞬の時に人間というのは

救われていく訳ですね。


 それは別に、宗教を持ってるもってないに関わりなくそうなんです。

 私共はそういう我を忘れた本来の自分の素顔、ふっと出すその素顔が、

5分でも10分でも15分でも長続きをして、自分も人も良くなって

いくように祈っていく。

 光が満ちてく様に祈っていく、想いや願いではなく、そこへ祈りが

加わって、ついには祈りによって、自分も人も皆が救われていくと

いいますかね、そういう大きな愛情に包まれる。そこを目指す

訳なんですね。


 だから、実は、そういう風にして空になって無になって、そこも

突き抜けていきますと、本当に人間というのは、先程から

言ってるように、自由になって解き放たれる。その時に、人間

というのは何も持っていないようだけれども、実は身も心も突き抜けて、

一番の宝物を持ってることになる、それは何かというと、何ものにも

煩わされない、何ものにも強制されない自分自身というのがそこへ

素直に出せる。

 その時に人間というのは一番安心するんです。


 それは私の方から言いますと、神様の愛というものを知って、神様の

自分が子供であるということを知って、神様が全部知って下すってる

そのふるさとへ帰って、ふっと安らぐ時に、人間というのは一番安心

するんです。そいういう風に人間というのは出来てるもんなんです。




 神様というのは我々のふるさとだから、別に宗教でなくても、芸術

であっても何であってもとに角人間というのは、そのふるさとを

目指して歩いている旅人みたいなものですから、そこへ我々は、どんな

形であっても、その人達を連れて行きたいと思う訳です。


 自分の中にある宝というものを持ち腐れにしないで、その宝を確認して

祈ってやっていくと、益々自分自身も張り切ることが出来るし、輝く

ことが出来るし、まわりも喜ぶことが出来る。


 これはもう、自分も他人も両方の成道なんでしてね。道が成っていく

のであります。ですから、そこをすべての宗教家は目指しましたし、

私自身もそれを目指して今までやって来ている訳だし、これからも

やっていく訳であります。

 その為に、世界人類が平和でありますようにという祈りは、誠に絶大な

力を発揮する訳でありまして、唯無心にこの祈りを唱えて、そうして

神様に任せていく。その時に本当に自分自身が自分自身として生きる。

 その喜びの瞬間というものを取り戻すことが出来る。そうして、

それがずっと続いていくと、やがて道がついていって、自分も

知らない間に、あーこんな所まで来てしまったかというような所まで、

神様というのは連れていって下さる。

 そういう事を信じて、そうして謙虚になって、この祈りを

唱えていきたいものだと思います。










                 

青 空

2010-12-03 09:29:46 | スピリチュアル
青空は

どこまでも澄み切って

神の愛の深さをしめす

青はやがて

あおとなり

藍となって

その

目にしみるほどの深い

かがやきは

神の智恵を

しめしてゆく


神よ

あなたの前に

私たちは

私達の祈りをささげよう

私たちが

あなたの愛と

光のすえである

ことを

世界平和の祈り言のなかに

しめして下さった

あなたに

よろこびの

平和の祈りを

ささげてゆこう