光はどこまでを浄めるかということについては、以前にも
申し上げたことがありますが、その範囲は無制限であります。
宇宙は、尽きることのない神の愛と調和の気に満たされております。
その神様の愛と調和(光)は、どこまでにもおよんで、
闇(業想念)を消し去るのであります。
さらに申しますなら、光は、どこにも、みちていると同時に、私達の
このいのちの源であることも忘れてはならないことであります。
神はわが裡にあり、我は光なりなのであります。
これは何も、己れを高ぶらせるおもいからの言葉ではありませんで、
いつも申しておりますように、私どもは神のいのちからわかれてきた
分生命(わけいのち)、分霊(わけみたま)なのでありますから、光
こそわがふるさとでありまして、肉体は、この光を受ける器なのです。
光をさえ切ることは出来ません。そうして、みちみちている光を、
分けることも、全く不自然なことであります。
私達が素直に神に祈りをささげ、日常を送って参りますなら、
私どもは、神の朗らかないのちを受けた光として、どこまでも、
まわりを和らげ、浄めてゆくのであります。否、神が、浄めて下さる
のであります。
世界人類が平和でありますように
合 掌
昌 久
申し上げたことがありますが、その範囲は無制限であります。
宇宙は、尽きることのない神の愛と調和の気に満たされております。
その神様の愛と調和(光)は、どこまでにもおよんで、
闇(業想念)を消し去るのであります。
さらに申しますなら、光は、どこにも、みちていると同時に、私達の
このいのちの源であることも忘れてはならないことであります。
神はわが裡にあり、我は光なりなのであります。
これは何も、己れを高ぶらせるおもいからの言葉ではありませんで、
いつも申しておりますように、私どもは神のいのちからわかれてきた
分生命(わけいのち)、分霊(わけみたま)なのでありますから、光
こそわがふるさとでありまして、肉体は、この光を受ける器なのです。
光をさえ切ることは出来ません。そうして、みちみちている光を、
分けることも、全く不自然なことであります。
私達が素直に神に祈りをささげ、日常を送って参りますなら、
私どもは、神の朗らかないのちを受けた光として、どこまでも、
まわりを和らげ、浄めてゆくのであります。否、神が、浄めて下さる
のであります。
世界人類が平和でありますように
合 掌
昌 久