「あー、しんどい。もっとお金があったらラクなのになー」
というのは、実はけっこういい線いってると思う。
もう少し進むと、
「なんてことだっ!お金なんてものがあるからこんなにしんどかったのか!
もうお金なんていらねーわ!!」
って意識に辿り着けるから。
ホント、もうちょっとなんだよな。
でもここで、多くの、ほとんどのひとの目の前には、けっこう厚く、高い壁が
そびえているのかもしれない。
まあ、2000年以上も、お金があったらこんなにシアワセだよー、という
モデルケースを見せつけられてきたんだから仕方がない。
「洗脳」って言葉は感じワルイけど、洗脳されてることに気付けないうちに
洗脳されてる、というのが「洗脳」だからね。その結果、
もはや、誰かもわからないひとが提示したそのモデルケースが、何世代にも
わたって、世界中のひとの人生そのものになってしまった。
しつこいくらいに繰り返し見せつけられ、それが日常だと感じてしまうと、
ひとの思考は止まる。
それは何世代にもわたって受け継がれ強化されたけど、人類にとってはあっと
いう間だったようだ。
まさに、神経の途切れた箇所に打ち続けられる拷問だ。
そうは言っても、いろいろお金はいるよー。旅行にも行きたいし・・・
けどさ、
旅行会社の宣伝でもよく聞く「忙しい、都会の日常を離れて、旅に出て癒し
を・・・」なんてのはさ、ちょい待てよ!と思う。
「日常」というのは人生そのものだ。
あなたが人生の中で、最も多くを過ごす「時間」だ。
つまり、ここで言われているのは、人生そのものを否定していること、そして
それを「認めていること」に他ならない。
冷静に考えれば、そんな人生に意味があるのか?とすぐ分かるような人生を、
多くの、いやほとんどの人類が過ごしている。
「仕方ないだろう」という、思考停止の強い力を持ったキーワードを、
いつまでも手放すことが出来ない。
確かに、急にサイフからお金が全部なくなったらタイヘンだよ。
そんなこと、百も承知だ。
だから、だれも、そんな極端なことを言ってるんじゃない。
現代人は、ちょっとでも異質な(と思える)質問をされると、すぐに極端な
例を出して、その話をする相手とその話そのものを否定しようとする。
なぜか?
それは恐いからに他ならない。
「じゃあおまえ、あいつが死ねといったら死ぬのか」みたいなさ。
バカじゃないのか(スミマセン、正直に書きました^^;)
自分の世界観があまりに狭苦しいことを認めなければならないのではないか?
と感じると、それまで温和そうだった人まで、とたんに攻撃的になる。
「寝ながら生きている」くせに、そういうところの直感はエラく働く。
それこそが、この世界に蔓延する「常識」
その怪しい常識を駆使して、新しい考えそのものを否定しにかかる。
そういうときのアタマの回転だけは、誰もが異常に速い。
話を戻すと、別にあなたのサイフから、お金を巻き上げようってことじゃない。
周囲のほとんどがお金を持っている中で、そういう社会が進行する中で、お金を
持てなくなるとしんどいのは、子どもでも分かる。
でも、
みんなが一斉にお金を手放したら、お金には価値がなくなる。
お金が無くなっても、仕事ややりたいことは、そのまま続ければいい。
でも、お金に縛られなくなったら、ムリをする意味がなくなる。
「しんどくっても、ムリして働く意味」がなくなる。
これ、スゴくない!?
それまで、稼がなければ生きられない、この会社を辞めるわけにはいかない、
家賃が払えない、食べられない!という思考が必要なくなるんだよ。
同時に、過労死も、ガンもいずれは絶滅するだろうね。
別に、そこから一生ダラダラ生きたっていい。
なにもせず、ただダラダラと。
でも人間は、なにもせずには居られない存在だ。
社会の貢献するしないは関係なく、遅かれ早かれ、多くのひとは再びなにかを
始めるだろう。
そしてそこに意味を持ちたいのならば、そのとき(時代)こそ「社会奉仕」が、
「仕事」というものの本質になっているのは間違いない。
でもね、ダラダラ生きてもいいんだよ。
その頃には、誰にも否定されない。誰もが、自分自身の意味を問い直すことに
夢中になってるから。
「みんながやってるから、じぶんもやらなければいけない」という、
現代においてはもっとも意味のない概念も、すでにない。
・・・そんな夢みたいなこと、実現するはずがない!
じゃあいつまでも、そういう人生を生きて下さい。
・・・じゃあ、どうすればいいんだよ!
だから、それをみんなで考えていこうよって話をしてるんだよ。
そういうことを言ってるんだ。
あ、それと、
「自分はどうすればいい?」という考え方を捨てて
「自分はどうしたい?」と考えるクセをつけることをお勧めします。
「自分はどうすればいい?」という考え方は、誰かの都合に合わせた、誰かに
判断を任せた、無責任な生き方。
「自分はどうしたい?」という考え方は、自分自身で判断し、自分主体の、
自分の人生に責任を持った生き方。
考えたこともなかった?
いまは誰もが、本当は、無責任に生きているんだ。
「オトナとしての責任」?なんだそりゃ(笑・スイマセン、正直に書きました)
とにかく、
実現するかどうかではなく(この思考自体が、あまりにも幼稚で短絡的な、
「極端思考」そのもの)まずは、
「お金のない世界」という「空想」を、一度思い描いてほしい。
詳細にビジョンを描くほど、お金なんていらないこと、逆にお金があるから
いつまでも世界から飢餓と貧困が無くならないことに、早々に気付けるでしょう。
すべては、ビジョンを持ってみるところから始まる。
それは入口に過ぎないけれど、そこから全ては始まるんだから。
とまあ・・・・・
今日は久々に、自分で記事を書いてみました^^
多くのひとに届きますように。
愛とともに。
というのは、実はけっこういい線いってると思う。
もう少し進むと、
「なんてことだっ!お金なんてものがあるからこんなにしんどかったのか!
もうお金なんていらねーわ!!」
って意識に辿り着けるから。
ホント、もうちょっとなんだよな。
でもここで、多くの、ほとんどのひとの目の前には、けっこう厚く、高い壁が
そびえているのかもしれない。
まあ、2000年以上も、お金があったらこんなにシアワセだよー、という
モデルケースを見せつけられてきたんだから仕方がない。
「洗脳」って言葉は感じワルイけど、洗脳されてることに気付けないうちに
洗脳されてる、というのが「洗脳」だからね。その結果、
もはや、誰かもわからないひとが提示したそのモデルケースが、何世代にも
わたって、世界中のひとの人生そのものになってしまった。
しつこいくらいに繰り返し見せつけられ、それが日常だと感じてしまうと、
ひとの思考は止まる。
それは何世代にもわたって受け継がれ強化されたけど、人類にとってはあっと
いう間だったようだ。
まさに、神経の途切れた箇所に打ち続けられる拷問だ。
そうは言っても、いろいろお金はいるよー。旅行にも行きたいし・・・
けどさ、
旅行会社の宣伝でもよく聞く「忙しい、都会の日常を離れて、旅に出て癒し
を・・・」なんてのはさ、ちょい待てよ!と思う。
「日常」というのは人生そのものだ。
あなたが人生の中で、最も多くを過ごす「時間」だ。
つまり、ここで言われているのは、人生そのものを否定していること、そして
それを「認めていること」に他ならない。
冷静に考えれば、そんな人生に意味があるのか?とすぐ分かるような人生を、
多くの、いやほとんどの人類が過ごしている。
「仕方ないだろう」という、思考停止の強い力を持ったキーワードを、
いつまでも手放すことが出来ない。
確かに、急にサイフからお金が全部なくなったらタイヘンだよ。
そんなこと、百も承知だ。
だから、だれも、そんな極端なことを言ってるんじゃない。
現代人は、ちょっとでも異質な(と思える)質問をされると、すぐに極端な
例を出して、その話をする相手とその話そのものを否定しようとする。
なぜか?
それは恐いからに他ならない。
「じゃあおまえ、あいつが死ねといったら死ぬのか」みたいなさ。
バカじゃないのか(スミマセン、正直に書きました^^;)
自分の世界観があまりに狭苦しいことを認めなければならないのではないか?
と感じると、それまで温和そうだった人まで、とたんに攻撃的になる。
「寝ながら生きている」くせに、そういうところの直感はエラく働く。
それこそが、この世界に蔓延する「常識」
その怪しい常識を駆使して、新しい考えそのものを否定しにかかる。
そういうときのアタマの回転だけは、誰もが異常に速い。
話を戻すと、別にあなたのサイフから、お金を巻き上げようってことじゃない。
周囲のほとんどがお金を持っている中で、そういう社会が進行する中で、お金を
持てなくなるとしんどいのは、子どもでも分かる。
でも、
みんなが一斉にお金を手放したら、お金には価値がなくなる。
お金が無くなっても、仕事ややりたいことは、そのまま続ければいい。
でも、お金に縛られなくなったら、ムリをする意味がなくなる。
「しんどくっても、ムリして働く意味」がなくなる。
これ、スゴくない!?
それまで、稼がなければ生きられない、この会社を辞めるわけにはいかない、
家賃が払えない、食べられない!という思考が必要なくなるんだよ。
同時に、過労死も、ガンもいずれは絶滅するだろうね。
別に、そこから一生ダラダラ生きたっていい。
なにもせず、ただダラダラと。
でも人間は、なにもせずには居られない存在だ。
社会の貢献するしないは関係なく、遅かれ早かれ、多くのひとは再びなにかを
始めるだろう。
そしてそこに意味を持ちたいのならば、そのとき(時代)こそ「社会奉仕」が、
「仕事」というものの本質になっているのは間違いない。
でもね、ダラダラ生きてもいいんだよ。
その頃には、誰にも否定されない。誰もが、自分自身の意味を問い直すことに
夢中になってるから。
「みんながやってるから、じぶんもやらなければいけない」という、
現代においてはもっとも意味のない概念も、すでにない。
・・・そんな夢みたいなこと、実現するはずがない!
じゃあいつまでも、そういう人生を生きて下さい。
・・・じゃあ、どうすればいいんだよ!
だから、それをみんなで考えていこうよって話をしてるんだよ。
そういうことを言ってるんだ。
あ、それと、
「自分はどうすればいい?」という考え方を捨てて
「自分はどうしたい?」と考えるクセをつけることをお勧めします。
「自分はどうすればいい?」という考え方は、誰かの都合に合わせた、誰かに
判断を任せた、無責任な生き方。
「自分はどうしたい?」という考え方は、自分自身で判断し、自分主体の、
自分の人生に責任を持った生き方。
考えたこともなかった?
いまは誰もが、本当は、無責任に生きているんだ。
「オトナとしての責任」?なんだそりゃ(笑・スイマセン、正直に書きました)
とにかく、
実現するかどうかではなく(この思考自体が、あまりにも幼稚で短絡的な、
「極端思考」そのもの)まずは、
「お金のない世界」という「空想」を、一度思い描いてほしい。
詳細にビジョンを描くほど、お金なんていらないこと、逆にお金があるから
いつまでも世界から飢餓と貧困が無くならないことに、早々に気付けるでしょう。
すべては、ビジョンを持ってみるところから始まる。
それは入口に過ぎないけれど、そこから全ては始まるんだから。
とまあ・・・・・
今日は久々に、自分で記事を書いてみました^^
多くのひとに届きますように。
愛とともに。