2007.6.27
朝からならだいじょうぶ。目の前にぶつけるものがある。問題はセッティング。
どれの隣になにを置くか。今日つかう筆はどれとどれか。
今日は油絵の具はやめにして鉛筆とペンと水彩にしようか。
最初に出す絵具はどれとどれか。一番最初に出すものが肝心だ。次を決定する。
古いのを引っぱり出すか?いいや、溶き油だけであっさりと新しい布に・・・。
いいや昔の描きかけにはっきりとした色合いの線と面をもったりと塗る・・・。おっと昨日の
描きかけのほうが先だった。まだ少し半乾きなので筆がもたつくうえに余計な筆の跡が
ついて色面の調和を乱す。それならばいっそ刷毛を使おう。別な乾いた絵に。
朝から大忙しだ。なにしろ頭痛になられては困る。ため込んで内部で腐らせて悪い沈殿物に
してしまう前に急いで吐き出さなくてはならない。
朝思った。form factory。夜中の夢の中はカタチの制作工場だ。絶え間なく常に
動き出す。目をつぶった途端。布団に横になった途端。睡眠の権利を奪う気だろうか?
せっせせっせと勝手に動き続ける。目がいけないのだろうか?あんまり見過ぎるか?
見たものが消化吸収され血となり肉となる。まったく胃袋や小腸とおんなじ働きをしてくれる。
form factory あるいはform farm カタチ農場。植えた種がそれぞれに赤くとがって
くねくねした「ピ」 や みどりにざざっと塗られたマルとなってどんどん大きくなっていく。
このままだと頭痛でまた2~3日寝込まなきゃならなくなる。そのための朝だ。
カタチ工場から採れたてのイメージを画面に起こす。それが私の仕事だ。
確かにピカソは身近に・・・いや程遠い。あのヒトは別格だよ。と同時に家族より身近に
いる。どうなってるんだあのおじいちゃんは?MorandiとKandinskyの間に挟まって
アウフヘーベンしようとしていたのだ。岡本太郎の言う対極主義というのとも似ていると
思うのだが。
そうそう。MorandiとKandinskyを両極に置いてしばらく眺めて右に寄ったり左に寄ったり
しているうちにピカソっぽいのが出てきたのだ。ちょうどおじいちゃん目の前で筆さばきを
見せてくれていたしね。ジャストでしたよ見事に。ちょうど!!ぴったり。通過するところは
通過するということです。
そして問題はモノ。材料。資源。案の定、中国産の雑な作りの豚毛は扱いやすい。
毛があんまり抜け過ぎて困ったり 可笑しがったりもしていたが、なんというか、雑な良さ。
雑草の強さ。もちろんラファエル コリンスキーとセットでないとどちらも引き立ちません!!
そしてすべて消費モノ。毛が減れば筆としての寿命はオワリ。ただ木の棒になります。
絵具は? 塗られれば終わり。固まったらもう使えない。
布は? ここまでというくらいに塗られればもう終わり。そこまでしていったい何を
やってるの? と、そこからが試されどころ。
つまりどれだけの味方が私についてるか?今までどんな作品に感動してきたかが
表れないとだめ。描いてる意味ナシ! シンデ。孤独を友達にしてまで創作することの目的。
ひたすらに「アリガトね」です。いいもの作ってくれて、それを私に見せてくれてありがとね。
今、みんなにお礼するからね。お礼のカタチを見せるからね。待っててね。
これから生まれてくる人たち。と いったものです。
あと、聞かせてくれてありがとね、や、言ってくれてありがとね、や、書き残してくれて
ありがとね、とかいうものです。
ナニシロ オデコ ノアタリ ガ ヒカッタノデスカラ・・・
タイヨウノ ヒカリノ メイアンヲ イシキスルマエニ・・・
コレカラ ヒカリト カゲノ メイアンノ ヒョウゲンニ 入るノデス・・・
ランボー と 宮沢賢治 と (セザンヌ)
ゴッホ