ほぼ同時に似たようなケースが2件発生していまして。
「スマホで子守やめて・・・小児科医会 啓発へ」
→実際子育てしてから言えよ、電車の中やファミレスで静かにしてほしいとき、スマホがどんだけ有難いか。
おエライさんたちに上から目線で言われてもね~。
「電車の中で、スマホをずっと触っている小さい子連れのママさんがいた。自分は子どもはいないけれど、友人の子どもを預かったりするときは、極力スマホは触らないように心掛けているけどな~・・・。」
→『子どものいないおばさん』の子育て論は痛いよな!そんな理想を語られても、四六時中子どもといっしょにいるこっちは、そんなこと無理なんだよ!
たまたま二件とも「スマホ」が出てきますが、それは偶然で、議論の本質とは関係ありません。
というか、上の小児科さんの啓蒙の件で言うと、子どもを静かにさせるのに、スマホがないと無理!ってのは、『子どものいないおばさん』的には「?」ですけどね。いっしょにおもちゃで遊ぶとかか、絵本とかじゃダメなのかな。ツールがスマホであっても、「与えっぱなしでほっとく」じゃなくて、いっしょに遊んであげるとかなら問題ないんじゃないのかな、とか思っちゃうんですけど、それは今回議論したいところじゃないので、置いといて。
今回ワタシが感じた違和感は、タイトルにもしましたが、
「理想を語っちゃダメなの?」ということです。
二件とも、「理想として正しいのはわかるけど、実際はそんな風にはいかない。」という反論です。
実際そうなのでしょう。
でも、じゃあ、理想は語るべきじゃない?
うまくいかない現実は、そんなに声高に主張するべきもの?
それはおかしいんじゃないかな、と思います。
実際は違うってわかっていても、理想がなかったら人は努力できない。
「それでいい」って思ったとたんに、そこがスタンダードになってしまう。
法律だって、「制限時速50km」ってあったら、暗黙の了解的に「時速55~60kmくらいまでならOKだよね。
って思うけれど、だからって、法律に「制限速度は時速50kmのところは60kmまでOKです。」とは書けない。
「スマホで子守はやめて」と言っても、お母さんが料理中や、手が離せない時、一時的にテレビやスマホでおとなしくしておいて!って場面はあるだろうし、そんなことを問題にしているのじゃないのは、わかるでしょうに、なんて「偉そうに!」ってなるのかな。
ちょっと種類はちがうかもしれないけれど、
ワタシはテストのたびに「100点とるつもりでやれ!」と言います。
これも理想です。
実際100点とるのは難しい。人間だからミスもするしね。
でも、子どもたちは「100点じゃなくてもいいよ。」って言われて頑張れるの?
ワタシだって、清く正しく品行方正にばっかり生きているわけじゃないので、
欲も煩悩も怠け心だってあります。
でも、そうじゃない自分を「できなくて何が悪い!」と大声でいう気にはなりません。
こっそりと恥、悔やみ、できるようになることを願います。
理想を掲げ、努力することは大切なことだと信じています。
「理想と現実のちがいを知ることが大人になることだ。」と昔何かで読んだことがある気がします。
もしそれが本当なら、私はこの年になってもまだ大人になりきれていないのかもしれません。
でも、「大人」が「理想」を語らなくて、どうして子どもたちに夢をみさせることができるのでしょう。
多くの人が理想をもち、そうなることを願う現実であって欲しいと思いました。
・・・・・・理想を言えば、2匹が同じネコベッドでネコ団子つくって欲しいのですが・・・。
現実は、モコに場所とられて落胆するにゃあ子の図ですわ・・・。
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