静謐な心なるもの。
故に。
私が子どもの頃、ピアノを習って、得たものは、静謐なる心の世界だった。
ピアノの鍵盤に指が置かれ、動き始めると、私はなにもない世界へ行った。
今も、リストの楽譜を読み、ラフマニノフの曲を聴き、パガニーニの音の動き、ベートヴェンを弾くとき、瞬間、心が空っぽになる。
私は、いわゆる音楽的センスはなくて、ピアノの腕もまったく上達しなかったけれど、その静謐な心地に惹かれてピアノを弾き続けている。
きっと、リストも、ラフマニノフも、ベートヴェンも、パガニーニも、なにもかもが空っぽになる世界を極めたに違いない。
モーツアルトやショパンと、違って。
<追記>
私は子ども時から運動神経がとても良かったらしく、小学校の運動会の徒競走では六年間いつも一着。
でも、集団行動がとても苦手だったので、団体競技は、大嫌いだった。
中学生になって、体育の授業で走り幅跳びの、なんだか記録的な距離を飛んだらしい。その為に陸上部の顧問に誘われた。
私にとって、陸上部に入部することなんぞはあり得ないと思った。
なぜゆえに、額に汗し過酷な練習をしなければならないのか、そんなことは、絶対にしたくないと思ったのである。体育教師に具現されている体育会的な人間関係も大嫌いだった。
人は、そのセンスが優れていても、それが好きとは限らない。
人は、そのセンスが劣っていても、それが嫌いとは限らない。
私はそれを、ピアノと陸上で体得した。
<追記2>
でも、観るスポーツは、なんであれ大好きでキャーキャー言いながらTV観戦をしている。
観るスポーツは、実に楽しい。(^_^)v
私は、自分が必死の形相で努力しない状況が、好きらしい。
だから、読むのは好きだが、書くのは、苦手。
否、書くのが苦手ではなく、書かねばならぬ状況が苦手、なのである。
<追記3>
ここで、帰納法的に気付いたこと。
私は、ピアノが上手になるための練習は苦手で、走ったり飛んだりは好きだけど、それを鍛錬する状況は嫌いで、書くことはいいけれど、書かねばならない状況が苦になる。
つまり、ある種の為に生じる努力「状況」が、嫌いでとても苦手なのだということに、今さら、気付いた。
トホホホの人生だわ。