ケセランパサラン読書記 ーそして私の日々ー

◇ 映画『ミッドナイトスワン』 世間とちょっとズレているかも知れない極めて個人的な感想。

2日の午後、『ミッドナイトスワン』を観てきた。
平日の14:40開演で、コロナ対策の座席は、ほぼ満席状態。

 

草彅剛の演技は、評判通りの迫真の演技だった思う。
またバレエ少女が、主役の一果もその親友のりん役の子も、バレエ姿が美しく、監督(名前分からない)がバレエ映画としても見て欲しいと言っていたが、その視点でも、充分堪能できる。
バレエ指導と演出は、岩井俊二の『花とアリス』と同じ人(千歳美香子)だということで、その振り付けや、公園などでのバレエを踊るシーンの美しさに、やっぱりなーと納得。
「花とアリス」の蒼井優の姿も美しかった。

 

今さらこの私のブログで、ネタバレしたところで、世間の評価は微動だにしないと思うので、感じたことをアットランダムに散々っぱら、書くことにする。

 


草彅(凪沙)と一果が夜の公園で踊るシーンは、とても美しく良いシーンだった。
にも関わらず、公園のベンチのおじいちゃんは、いかにもの役割で蛇足だと思う。
「白鳥の湖」について、おじいちゃんの意味付与的な言葉って、「…いらないんだよね〜」という感じがした。
いわゆるクサくて、説明っぽい。
宮崎駿のアニメの、「地球屋」の、あのおじいちゃんを連想しちゃったシーンなんだけど、その役柄ポジションがうまく機能していなかったと思う。



画像として、とても印象的だったのは、一果の親友りんが、屋上から踊りながら飛ぶシーンだった。

ただりんちゃんにとってお気の毒は、彼女の描き方がいかにもというほどのステレオ描写。
精神的に親からの抑圧⇔虐待を受けているという少女なのだが、その描き方の、なにかにつけて、とことんありきたり。
りんちゃんが煙草を吸うシーンとかいる?と思った。

それと、一果のバレエコンクールのシーンでのりんの亡霊or幻影、及び水川(一果の母親)の出現には興醒め。


全体を通して、ハシゴ外され感のある、半端感が拭い去れない映画だったように思う。

それで、この映画を見終わったあと、世間の評価ほど、感動しなかった。
なぜなら、これって、ありなの? と思うシーンが、先に書いた以上に、何カ所もあったからだ。
更に取りあえず、挙げてみる。

 

・従姉妹(水川)が娘(一果)に対し、育児放棄と虐待のために、親戚の配慮か、その娘一果の一時的な避難ということで、草彅(凪 沙)が預かることになるという、そもそもの設定に無理がないか。

 この時点で草彅が演じる年齢40台男性がトランスジェンダーだということは、彼の親を始め身内は誰も知らない。
 そういう状況で中学生の少女を、その少女の母親の従兄弟(草彅)の40台独身男性一人住まいに預けるのは、ありなのか? という、その設定に、私はガツンと引っかかる。

 藤村の『新生』が、脳裡に浮かんだ。
 叔父と姪との性的関係がテーマの、ほぼ藤村の私小説だ。
 

・タイは性別適合手術では、日本の現状よりもかなり進んでいるのにもかかわらず、草彅(凪沙)が手術する状況とその
 後の状況が、まるで映画『リリーのすべて』の時代かと思うほど、時代錯誤を感じた。

 これは、タイの性適合手術を行っている医療界から、クレームが来るぞと、危惧するほど。(鑑賞後第一印象は、実はここだった)
 ただ、どんな世界にもヤミの稼業があるので、手術にかかる費用を考えたら、あり得るのかもと思いもするが。

 

・後半、性別適合手術語の草彅(凪沙)が故郷広島の実家でのシーン。
 一果の母親役の水川あさみに草彅(凪沙)が、殴られ押し倒されるシーンで衣類が乱れ、胸があらわになるのだが、ここ普通、術前術後にかかわらず、まずはブラジャーしてるだろ!と思った。

 この描写については、どうも演出する側に、無自覚的に草彅(凪沙)が “男”という意識があったとしか思えない。

 それは、R指定の基準って、なんだったけ?と思ったことと相通じる。
 乳房があらわになる映画は、G(年齢制限なし)ではなくて、確かPG12だと思うけれど。

 

・草彅(凪沙)の手術後の、状況描写が、納得できなかった。
 術後の状況の悪化にある草彅(凪沙)のアパートに、広島の中学校(高校か?)を卒業し上京した一果が訪ねるシーンの描写。
「ヘルパーさん?」と草彅(凪沙)が言うセリフがあって、ヘルパーが来訪してるのであれば考えられないような、この部屋の乱雑不潔極まりない凄まじさと、この草彅(凪沙)の臥している目を覆うような状況はありか?と、疑問が大。過剰演出だ。

 

・母親の育児放棄に暴力、自傷行為、貧困、ジェンダーフリー、男娼の性風俗、母性、性適合手術、バレエ、など、盛りすぎ感も否めない。

 

と、ほんと、細部の細部ではありますが、私の頭の中では、「あり得ない」が発動し、映画の後半に来て、「うむ〜」と、思う個所が随所にあり、なんというか、この映画の設定はマジにあり得ない!!と思ってしまった。

 

ただ、監督がなにを考えて製作したかという事ではなくて、
シスジェンダー側から、トランスジェンダーの問題を扱った映画と考えれば、それは大成功だったと思う。



何よりも、シスジェンダーの私はこの映画を鑑賞し、その帰宅後、性同一性障害や、性転換手術と、その日本の現状と問題点、タイに於ける性転換手術の現状の状況や、性別の戸籍変更などについて、ここはもう徹底的に調べるぞという気持ちになった。

それで、本当に、自分が無知であったことを知った。

まず、性同一性障害という名称も現在では障害というカテゴリーでは捉えず、性違和感症候群(Gender dysphoria)という表現をするという。
性転換手術も性適合手術という。
この性適合手術は現在保健が適用されているが、その為に必要な事前に定期的に行われるホルモン注射には保健が適用されない。これは明らかにおかしい。

これらをかんがみると、タイの病院で行われる手術は、その国際的にトップを行く技術に費用、ビフォー&アフターケアまで徹底している現実には、これまもうタイの重要外貨獲得産業のひとつかも知れないと思うほどだ。

更に大きな問題は、戸籍の性別の変更だが、これには、性適合手術を受けていなければならないという。
可視的な性別が必要条件になっているということだ。
トランスジェンダーの人たちが、全員、性を変える手術を望むとは限らない。

 

このように、トランスジェンダーについて、そして性適合手術の日本の現状や国際レベルの医療との比較など、沢山の事について知る契機となった映画だった。

 

 

 

 

 

 

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