flute_papa のひとりごと

音楽を愛する還暦すぎのじいじが世の中のことをブツブツ。音楽のネタが少なくなっていることが気がかりだったりして(^^;)

oyajiのあしあと 高校時代の4

2004-06-14 | My Autobiography
なかなか話が進みません。読んでくださった方申し訳ございませんm(__)m こりゃ大河ドラマというか、小河ドラマというか・・・

今日の書き出しは「コーラルブルー」から始まりました。先入観無しに始めて聞いた時に、こりゃ課題曲みたいと思いましたが、ホントそうだった。しかし課題曲作曲する人も大変ですよね。あの限られた時間に音楽的にまとまりを持とうとするから、導入部、主部、終結部まで細切れに作らなくちゃなんないんだから。もちろん、いい曲だと思うものもたくさんありますよ。私が、課題曲だからといってなめてるなんてとんでもない。お間違えの無いようにお願いしますね(^^♪ あ~あ、言ってるそばから、また導入が長い!反省です(*_*; 

それでは・・・

さてさて吹奏学部に入部しましたけど、その時のことを思い出すのに難儀しますね~。なにせ、31年前ですから(^^ゞ
多少作った記憶になっちゃうかも。
もしかして、これがじじいの始まりなのかと焦ってしまいます。年寄りって自慢話しかしないし、美化しちゃったりしてるしって、この前まで自分自身が思ってたことじゃないの!また、脱線しちゃいました。

脳みそのシナプス総動員して思い出しますと(って、オーバーな!)、
3年生は1人、2年生は8人くらいかな。ねっ、しょぼいでしょ。
気を取り直して、新入生ですが、15人くらい入ったんですよね。
1年の男子は私を入れて3人。上級生は、3人とも金管にさせたかったみたいだけど、残念でした~。私はフルートやるんだもんね。楽器も持ってるし。と、言うことでめでたくフルートパートになりました。1年生のフルートは3人。お約束(?)の通りで、ほかの2人は女の子でした。
フルートパートは2年生は0。すなわち先輩はいないということで、どえらくお気楽なパートでした。
私のその頃の部員としての振る舞いは甚だ団体生活向きでなく・・・。なかなか部活に出ない!だってフルートのレッスンが忙しいんだもん。ってほど忙しいわけじゃなかったんですけどね。なぜか最初の1ヶ月はあんまり参加してなかったみたいです。なんで、分かるかというと、あるとき合奏練習の日に部活に出たら、部長に「やっと来たな!」と言われたからです。たぶん業を煮やしてたんでしょうね(^_^;)

でも、チューニングを始めたら部長さん驚いてた。音が違う~と。くれぐれも言っとくと、音がずれてて、音が違う~という意味ではありませんので悪しからず。まだフルート始めて1ヶ月くらいだったんだけどね。これで、気を良くしちゃったんですよね。どーだ、てな感じで。あほですよね~、私はほめられるて伸びるタイプなもので(^^ゞ 叱っちゃや~よ(志村けん風に)。へこまされるとすぐにへそまげて反抗するやなタイプでもありまして。それは、多少今でもそうかも。つまり進歩していないってことですかね。で、それからはちゃんと部活にも参加するようになりました。でも、フルートのグループレッスンは週一でちゃんと行って、着々と教則本は進めていきましたよ。

グループレッスンは、ヤマハ渋谷店のビルの上のほうの階にあるレッスン室でした。最近でも、大人向けに楽器のグループレッスンがありますが、みんなの知ってる曲を吹けるようにしましょう、みたいな感じが多くありませんか?つまり、お気楽な感じでやる教室なわけで、教則本をこつこつやるなんて教室は無いんじゃないかな?
私にとって幸運なことには、このクラスは後者の方針だったんですよね。教則本は「アルテ」の1巻でした。クラスが開講したときは7人くらいいたと思うんですが、櫛の歯が抜けるようにぽろぽろとみんな脱落していきました。すると、どうなるかというと、グループレッスンといいながらマンツーマンになっちゃうわけで。楽器屋さんとしては、スタジオを一つ貸切で個人教授させると赤字になっちゃうので、クラス(といっても私一人でしたが)は閉鎖の憂き目に。そこで、途方に暮れるところでしたが、先生が自宅で個人レッスンしてあげるということを言ってくれたので、一も二も無く先生の申し出を受け入れて商談成立であります。先生の名前は渡辺先生で、武蔵野音大出だったと記憶してます。楽器は「ヘインズ」だったな確か。えらく楽器が黒かったのを覚えています。先生のアンブシュアは割りとアパチュアが広くて、低音が太いなと思ってました。
と、ここまでちょっと書きすぎました。つづきは又次回に。

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