6月7日早朝、忽然と我が家から光が消え去った・・・。
母、享年87歳ほやほや~^^;
四か月前に亡くなったばかりの父同様にまるまるの誕生日を先月に迎えたばかりでした。
もうそんなに長くないとわかってはいたのですが、あまりに日々元気に振る舞っていた母の姿を間近かで世話していたもので、こんな日がくることを何度打ち消したことか^^;; ほんとうに本当に^^元気だったんですよ・・逝ってしまう前々日前までは・・・。
父がまだ生前の頃より母は、「どうしようか^^;このまんまやったら本当に100歳まで長生きしてしまうかもしらんでぇ~^^;」と、よく口癖で呟いていました。「心配せんでも、ほんなには生きられんって^^; ここらでは97歳が最高やから、一番になりたかったらまずは98歳を目指そうや^^!」と冗談めかしながら私は答えていたものでした。
でも心の中では、桜花さんのおばあ様があんだけ長寿を全うされたのだから、我が母もあやかって^^きっと長生きができるかもしれないと浅はかにも信じて疑わなかったのだけど・・、そんなこと言ってても人間は天から授かった月日にはどうあがいても抵抗できないもんなんやわ。あっけなく@@;連れ去られて逝ってしまいました~~。
あの夜は、いつもになくオムツ替えのブザーで二時間置きに起こされ、えーまた~と思いながら最後に起きたのが夜中の3時頃、眠いながらも母の声を聞いたその時が最後でした。その後ぐっすり寝込んでしまい慌てて朝起きてきた時には母はもう既にこの世には居ない存在と化していました。
今思っても、幻をみてるような朝の景色。母は大腸癌で他にも転移している状況でしたが年齢のせいか痛みを訴えることもなかったのですが、むくみがひどく最後は肺に水が溜まってきて呼吸がしんどくなってくるような状態になっていて、でもそんな症状がわかったのも前々日だっただけに・・・。
いつまでも泣いてたらアカンと思いつつも、あの日を振り返りながらまた嗚咽してしまいます。
しかし、以前からよく夢物語のように聞かされていたんですが、母は病院や施設で亡くなるのは嫌だった人で「我が家で亡くなる大往生劇」が念願の夢でした。そして、思いのそのまま見事に幕を閉じました。それも、まるで映画の主人公ように安らかな笑顔を浮かべた寝顔のまま気強い母は誰に看取られることなく独り息を引き取っていったのです・・。
やっぱし^^;;; 母ちゃんって!!! 凄いんやわぁ~~♪
そんな我が母について、もう少し想いをめぐらせ気持ちを吐き出してみたいと思います。つづく・・
人の命に限りがある以上、最後まで、あまり苦しまず、自分の人生を全うできるというのは幸せなことだと、最近、思いますが、そうは言ってもお淋しいですね。
お父様、お母様との思い出のまだ色濃いこの時を大切にお過ごしください。
ご冥福をお祈りいたします。
母にまでお悔やみの言葉をありがとうございます。心に染みました。
母は自分が癌だと知らずに旅立ちました。私は絶対ガンにはならない!と頑固に言い張ってたものですから、今更もう伝えることもないかと告知せずにいました。
私も4ヶ月近く傍で看てたけど、そんな様子は微塵もなかったもので私自身も忘れていたほどでした。病院から引取った当初時は、もっともっと壮絶な介護状況を考えていただけに、食事とおむつ替えぐらいで周囲に労ってもらう程のことなんて何もなくて、どうしょ^^;本当にこんなんでいいのかしら^^?と自分では思う日々。
母は車椅子に乗ることもありましたが、ほとんどはベッドで過ごす毎日。しかし、元気な頃より長年編み続けている ”アクリルたわし” 作りは動けなくなっても日課のようにベッドの中でも編み続けていて、毎週来てくださった訪問看護さんや病院の先生に嬉しそうに手渡していました。亡くなってからも、弔問に来てくださった村の方々にも渡せるほどに袋いっぱいにため込んでビックリするほどの量が残されてあって・・。
そんなねぇ~、気丈夫に頑張っていた母だけど、最後にね、思わず吐き出てしまった言葉がとても切なくて・・・
急に息苦しさを覚えた母を連れ介護タクシーと共に病院へ、その時に肺に水が溜まりにかかっていることがわかったのですが、それからシュンと気落ちしてしまって、
その日は午後からマッサージさんの訪問日だったこともあり、しんどかったら断ろうかと母に訪ねた際に弱気な涙声を初めて聞いたのでした。
「家に誰も来んし、誰も顔をみに来てくれん。マッサージさんだけや、来てくれるのは・・・」
母は長生きした分、仲の良かった知り合いや友は皆早々と先に他界し、歳相応の隣人も本当に皆周囲から居なくなってしまった現実があります。話し相手がいない寂しさが募ってしまったんだと思います・・。
せめて、秋まで命がもったら、5人目のひ孫をその腕に抱く楽しみがあったのにな~~☆