本のハコ トラウマ克服哲学部

部員1名、活動不定期。

アンパンマンとナガネギマン

2020-10-08 20:15:18 | 
『Rei』(さとうみつろう著)によれば、
「思い(無意識の)」と「行動」は真逆、「行動」と「現実」も真逆、「思い」と「現実」はイコールとなる。
頭がカタイので、こんがらがっちゃって訳わかんないとこもあったけど、すごくおもしろかった。

試しにアル中の夫を持つ共依存の妻をこれにあてはめてみる。
思い:妻は夫に酒をやめてほしくない(無意識)。
行動:良き妻として夫を支える。夫が酒をやめてくれることが自分の心からの願いだと信じてるし、周りにもそう見える。
現実:しかし夫は死ぬまで酒をやめられない。
・・・とかってことになるのかな?

平和のために活動する人の前には、平和じゃない世界が。
ピアノの練習に打ち込む人の前には、うまく弾けない現実が。
若づくりに余念のない女性の前には、老いという現実が。

このReiの説が100%ホントかはわからない。けど、おもしろいなと思った。

実は私はアンパンマンがあまり好きじゃない。
困っている人、おなかをすかせた人を探して笑顔でパトロールする姿がな。どうもな。
こんなこと言っちゃダメなのはわかってる。でもでも。なんかもう、どうしたってウスラ寒い。あれ、困っている人を欲してないか?
みんなの幸せのために行動するアンパンマンの前には、バイキンマン(悪)という現実が。そしたらアンパンマンの無意識の思いって・・・。
Reiの法則に当てはめてみたらどうなるか。

『アンパンマン』には、ナガネギマンていう正義の味方も出てくる。
普段はナガネギを作ってて、それを売って暮らしてるらしい。普段の姿は気のいい「ネギーおじさん」だが、ひとたび事件に遭遇するとダンディな「ナガネギマン」に変身し、悪と対決するのだ。
ネギーおじさんのほうが断然いい。正義を生業としていないから。

自分でもねじまがってる自覚はある。ゴメンナサイ。

『毒になる親』スーザン・フォワード

2020-10-08 08:59:11 | 
久しぶりにひっぱり出して読んでみた。
本を開くと「もう一方の親の果たしている役割」(四章 アルコール中毒の親)のページにしおりがはさまっていた。

うちの場合は、アル中系の毒親ではなかったけれど、夫婦の関係はアル中家庭のソレによく似てると思う。
父は、依存心が強くて情緒不安定で、誰かを怒鳴りつけて当たり散らすことでしか自分を保てない人だったが、父が強いのはブチ切れてる間だけで、キレてない時はただのだらしない親父に戻っちゃう。そのためか、きっちりとしたマジメな性格の母に完全に見下されバカにされていた。私は物心ついた頃から、父の悪口を言う母しか知らないし、それは今も変わらず継続中だ。

大人になって、この夫婦を横並びの立場から眺めてみるに、なんていうかタイプは違えど、どっちもどっちっていうか。
母が気持ちよく自尊心を保てるのは「ダメな父」がいてこそなのだろう。だって本気で嫌なら、実はイロイロやれることがあるはずなのだ。でも、母はけして本気では動かず、父をダメなままにしている。アルコールが介在しなくても、アル中夫婦のような共依存関係は実現可能なんだなって思う。両親みてると。

この章のシメで、著者は「もう親に夢を見るな。彼らはたぶん変わらない」しかし「親は変わらないが、あなたは変われる」と書いている。
最近『Rei』(さとうみつろう著)を読んでた。上巻の中盤辺りで、Reiが「現実はけして変わらないが、自分がとった行動は目の前の現実に必ず反映される」「カギは行動にあり」的なことを語ってるんだけど、それを思い出して、アル中シメ部分を再読した時にちょっと震えた。
なぜなら、スーザン・フォワードが「あなたが変わるために」とオススメしているのが、「親との対決」だからだ。つまり行動だ。

私は、36くらいのときに「対決」してみた。
結果どうだったかというと、やっぱり親はひとつも変わらなかった。
けれど自分の中には確実に変化があったと思っている。
対決することによって、ひとりぼっちだった自分の味方になってあげられた、という感覚が生まれた。で、この「味方」という思いつき?が、私をものスゴく感動させたのである。
あの頃、当然親は敵だったし、自分すら自分の敵だった。完全に親側の立場にたって自分を責め続けてたんだから。
だけど、初めて自分に味方してくれるひとが現れた。現実に体をはって、私のためにモノを言ってくれるひと。自分が自分のお母さんだったらよかったのに、とすら思った。
いや、わかってます。一人芝居もいいとこだ。
けど、私は自分の中に生まれたこの感覚にすごーく感動して・・・
ヘンな言い方だけど、これでやっと「自分自身に申し訳が立つ」と思えた。

対決してみて自信がついた。で、たぶん強くなれた。

実際に動いてみなければ見ることのできない景色がある、っていうのは当たり前っちゃ当たり前のことなのかもしれない。

私の場合はこんなふうだったけど、人によっていろんな形があると思う。
もしもハラをくくることができたなら、行動に移してみることは確かにオススメです。


花束

2020-08-31 00:10:00 | 日記

サンボマスターの『花束』。
大好き。

昔は音楽とイマイチ折り合いがよくなかった。
小学生の頃、せいこちゃんか明菜ちゃんか?マッチかとしちゃんか?どっち派?という話題に私は1ミリもついていけなかった。どっちが好きか。誰が好きか。
自分の心がどこにあるやらわからない、ACあるあるだ。

しかし今はわかる。ハッキリわかることがすごくうれしい。

音楽っていいな。



映画と観客

2020-07-28 10:51:45 | 
『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』飲茶 4
1章 ヤージュニャヴァルキヤ

古代インドでは、人間のやらかす「勘違い」について説明する際に、「踊り子」と「観客」という言葉を使う伝統があるらしい。『史上最強の哲学入門』では、それを「映画」と「観客」に置き換えて説明している。

真っ暗闇の映画館で、たった一人で映画を観ている人がいる。その人は自分が観客であることを忘れて映画にのめり込み、自分自身を映画の主人公に同化させてしまい、悩み、喜び、苦しむ。同化が進みそれが日常となると、彼は「これは現実だ、間違いなく自分自身の身に起こっていることだ!」と信じ込み、もはや自分がただの観客であったことを思い出せなくなる。ところが何かの拍子にパッと明かりがついて、「自分はただ映画をみているだけだった」ということを思い出せたとしたら、その瞬間、彼が抱えていた「問題」や「不幸」は一瞬にして消え去る。結局『彼自身』は、本当は全く不幸でもなんでもなかった。「不幸」だったのはあくまでも「映画の中の主人公」であって、『彼自身』ではなかった。それなのに彼は、勝手な思い込みで「不幸だ不幸だ」と勝手に騒いでいただけだったのである。

なぜ、人は映画の中の自分と同化してしまうのだろう。
自分を主人公としたその映画はどうやって作られていくのか。

身近な人の言動、自分の能力、経験、社会的な立場、道徳、文化とか、とにかく自分にひっかかるありとあらゆるものが総合されて組み立てられていくはず。実際、子供ってそういうふうにして自分自身と自分を取り巻く世界のストーリーを作りあげてくんじゃないだろうか。

私が観ていた「オチコボレ」の映画は父のすり込みによるところが大きい。実際、父の中で私は落ちこぼれなのだろう。けれどそれは父のストーリーであって、私のストーリーはそれと同じでなくていい。

問題は、
・父のストーリーを無修正のまま自分の中にとりこんでしまっていたこと。
・それにはまりこんで身動きがとれなくなっていたこと。
・そして、その構造に全く気づいていなかったことだ。

気づくか気づかないか。この差はとてつもなく大きい。と思う。

大きくなってから、父、母、祖母と会っているときに、昔の恨みからケンカになったことがある。父と母は記憶にないの一点張りだったが、祖母だけは違ってて、家族崩壊、金銭面的危機を回避するためにおまえが我慢するのは当たり前、と堂々と諭された。
ダンマリを決め込む両親より、ばあちゃんと話すほうがいっそ清々しかった。

少なくとも、子供が本気でぶつかってきた時に、それに耳を傾けようとも、過去をふりかえってみようともせず、ごまかしたり、しらんぷりしたり、子供にオマエオカシインジャナイカと言ってきたり。
そんなふうにしかできない人間と心から気持ちよくつきあえるか?
信頼関係を築けるか?
・・ちょっと難しいなと思う。
過去がどうこう以前に、今の親の姿を見てそう思う。
残念なヒトが親だった。それだけだ。

気づきによって「全ての苦悩から解放される」っていうのはオーバーだ。けど、気づきによってストーリーの「選択」が可能になるというメリットは相当大きいのでは?と思う。

私的に、悟りはここまででもう十分だ。座禅のために山に入ることはきっとないだろう。

梵我一如の謎

2020-07-28 09:44:18 | 
『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』飲茶 3
1章 ヤージュニャヴァルキヤ

「アートマン(我、自己、私)の正体がブラフマン(梵、世界の根本原理)と同一であることを知った人間は、すべての苦悩から解放され「究極の心理」に到達する。」

こんなことがあるだろうか。究極の真理てやつを知りさえすれば苦悩がなくなる・・・そんなことある!?と思わずにはいられない。
娘が事故死しても?冤罪で逮捕されても?自分の不注意で誰かを下半身不随にさせてしまっても?目がさめたら奴隷になってても?大空襲の火の海の中、逃げまどっている最中でも?

『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』の続きを読むと、釈迦の章に入って「だよね!」とウンウン頷きたくなる展開に。
インドの修行僧は苦行に走るようになったらしい。
悟りをひらけば「どんな苦悩からも解放される」ということはつまり・・・死ぬ一歩手前まで断食しても、火の上を裸足で歩いても、ボコボコに殴られても、どんな苦しみにも平気でいられたら、それは悟りをひらけたっていう証拠になるよね?という解釈。苦行は「悟れたかどうか」を客観的に判断するためのバロメーターになってしまった。
的なことが書いてあった。

ヤージュニャヴァルキヤの章を読んだ時、私が梵我一如にものすごく共感したポイントは「~に非ず、に非ず」の部分。あらゆる不幸は勘違い、ここにだ。
経験上、心底思う。勘違いに気がつけば、無駄な苦しみを大きく削ることができる。思い込みで苦しんでいる若い人にはぜひ、1分1秒でも早くムダに気づいてほしい。心からそう思う。私は40手前までかかったから。

梵我一如ってすごい哲学だなあと思った。けれど、それを知ったからといって今ある苦しみが消えるとは思えない。釈迦の章を読んでも、やっぱりそう思った。悟りが普通の世界、普通の人間の役に立つのか。

何もない無の状態の世界に、私たちが名前をつけていく。そうすることで無が有へと区別され、モノや概念が存在しはじめる。区別を増やすことは世界を生み出すこと、それを学ぶこと、逆に区別をなくす方向に進み続ければ、いつか最初の無の状態にいきつく。個人と世界の境目さえない状態を感覚的に体験しようとするのが悟りを得ようとする行為?
かな?東洋哲学の真髄、解釈ちがってるかもしれないけど、最後まで読んでみて、このへんが私の限界。悟ってるわけじゃないからな。仕方ない。