本のハコ トラウマ克服哲学部

部員1名、活動不定期。

梵我一如の謎

2020-07-28 09:44:18 | 
『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』飲茶 3
1章 ヤージュニャヴァルキヤ

「アートマン(我、自己、私)の正体がブラフマン(梵、世界の根本原理)と同一であることを知った人間は、すべての苦悩から解放され「究極の心理」に到達する。」

こんなことがあるだろうか。究極の真理てやつを知りさえすれば苦悩がなくなる・・・そんなことある!?と思わずにはいられない。
娘が事故死しても?冤罪で逮捕されても?自分の不注意で誰かを下半身不随にさせてしまっても?目がさめたら奴隷になってても?大空襲の火の海の中、逃げまどっている最中でも?

『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』の続きを読むと、釈迦の章に入って「だよね!」とウンウン頷きたくなる展開に。
インドの修行僧は苦行に走るようになったらしい。
悟りをひらけば「どんな苦悩からも解放される」ということはつまり・・・死ぬ一歩手前まで断食しても、火の上を裸足で歩いても、ボコボコに殴られても、どんな苦しみにも平気でいられたら、それは悟りをひらけたっていう証拠になるよね?という解釈。苦行は「悟れたかどうか」を客観的に判断するためのバロメーターになってしまった。
的なことが書いてあった。

ヤージュニャヴァルキヤの章を読んだ時、私が梵我一如にものすごく共感したポイントは「~に非ず、に非ず」の部分。あらゆる不幸は勘違い、ここにだ。
経験上、心底思う。勘違いに気がつけば、無駄な苦しみを大きく削ることができる。思い込みで苦しんでいる若い人にはぜひ、1分1秒でも早くムダに気づいてほしい。心からそう思う。私は40手前までかかったから。

梵我一如ってすごい哲学だなあと思った。けれど、それを知ったからといって今ある苦しみが消えるとは思えない。釈迦の章を読んでも、やっぱりそう思った。悟りが普通の世界、普通の人間の役に立つのか。

何もない無の状態の世界に、私たちが名前をつけていく。そうすることで無が有へと区別され、モノや概念が存在しはじめる。区別を増やすことは世界を生み出すこと、それを学ぶこと、逆に区別をなくす方向に進み続ければ、いつか最初の無の状態にいきつく。個人と世界の境目さえない状態を感覚的に体験しようとするのが悟りを得ようとする行為?
かな?東洋哲学の真髄、解釈ちがってるかもしれないけど、最後まで読んでみて、このへんが私の限界。悟ってるわけじゃないからな。仕方ない。


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