『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』飲茶 4
1章 ヤージュニャヴァルキヤ
古代インドでは、人間のやらかす「勘違い」について説明する際に、「踊り子」と「観客」という言葉を使う伝統があるらしい。『史上最強の哲学入門』では、それを「映画」と「観客」に置き換えて説明している。
真っ暗闇の映画館で、たった一人で映画を観ている人がいる。その人は自分が観客であることを忘れて映画にのめり込み、自分自身を映画の主人公に同化させてしまい、悩み、喜び、苦しむ。同化が進みそれが日常となると、彼は「これは現実だ、間違いなく自分自身の身に起こっていることだ!」と信じ込み、もはや自分がただの観客であったことを思い出せなくなる。ところが何かの拍子にパッと明かりがついて、「自分はただ映画をみているだけだった」ということを思い出せたとしたら、その瞬間、彼が抱えていた「問題」や「不幸」は一瞬にして消え去る。結局『彼自身』は、本当は全く不幸でもなんでもなかった。「不幸」だったのはあくまでも「映画の中の主人公」であって、『彼自身』ではなかった。それなのに彼は、勝手な思い込みで「不幸だ不幸だ」と勝手に騒いでいただけだったのである。
なぜ、人は映画の中の自分と同化してしまうのだろう。
自分を主人公としたその映画はどうやって作られていくのか。
身近な人の言動、自分の能力、経験、社会的な立場、道徳、文化とか、とにかく自分にひっかかるありとあらゆるものが総合されて組み立てられていくはず。実際、子供ってそういうふうにして自分自身と自分を取り巻く世界のストーリーを作りあげてくんじゃないだろうか。
私が観ていた「オチコボレ」の映画は父のすり込みによるところが大きい。実際、父の中で私は落ちこぼれなのだろう。けれどそれは父のストーリーであって、私のストーリーはそれと同じでなくていい。
問題は、
・父のストーリーを無修正のまま自分の中にとりこんでしまっていたこと。
・それにはまりこんで身動きがとれなくなっていたこと。
・そして、その構造に全く気づいていなかったことだ。
気づくか気づかないか。この差はとてつもなく大きい。と思う。
大きくなってから、父、母、祖母と会っているときに、昔の恨みからケンカになったことがある。父と母は記憶にないの一点張りだったが、祖母だけは違ってて、家族崩壊、金銭面的危機を回避するためにおまえが我慢するのは当たり前、と堂々と諭された。
ダンマリを決め込む両親より、ばあちゃんと話すほうがいっそ清々しかった。
少なくとも、子供が本気でぶつかってきた時に、それに耳を傾けようとも、過去をふりかえってみようともせず、ごまかしたり、しらんぷりしたり、子供にオマエオカシインジャナイカと言ってきたり。
そんなふうにしかできない人間と心から気持ちよくつきあえるか?
信頼関係を築けるか?
・・ちょっと難しいなと思う。
過去がどうこう以前に、今の親の姿を見てそう思う。
残念なヒトが親だった。それだけだ。
気づきによって「全ての苦悩から解放される」っていうのはオーバーだ。けど、気づきによってストーリーの「選択」が可能になるというメリットは相当大きいのでは?と思う。
私的に、悟りはここまででもう十分だ。座禅のために山に入ることはきっとないだろう。
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