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教育業界の胎動~コロナによって揺らぐ教員のアイデンティティ~

2020年04月18日 | 教育
今、教育業界が転換点を迎えている!!


ついに学校でも映像を使おうという機運が!
代表的なのがYoutubeやzoom、teamsで映像を配信しようという動き。
授業ができない中で、何をしたら良いのか。何ができるのか。


この動きは悔しいけどコロナによってもたらされたものであって、
それは黒船に開国を強いられた江戸幕府に似ている。
時に強力な外力によって、それまでの常識はいとも簡単に崩れていくもので。


本当はこういう動きがコロナ以前にあれば良かったのだけど、
コロナという外力がなくても、イノベーションを起こせる業界であれば良かったのだけど、
もう今更そんなこと嘆いてもしょうがない。


かくいう私も、平日は毎日生徒とコンタクトを取っています。
とはいっても、ほぼ一方的に配信しているだけなのですが…
この前初めて、動画による授業をアップしてみました。
FBやインスタには載せたので、見てくれた人もいると思います。
コメントいただいた方々、ありがとうございます。


最大幸福か最小不幸か


さてさて、こんな議論があります。
あなたの考えは、どちらに近いですか??考えてみてください。


A「どんどん動画を配信して、この時間を少しで有意義に使ってもらおう!」
B「でも動画を見れない通信環境とかデバイスの生徒もいる!不平等が生じる!」


あなたの考えはどちら寄りでしたか??
どちらが正解ということはないし、どちらの言うことも理解できると思います。
でも、もしあなたが決定権を持っていたら、どっちを選びますか??
動画配信、する??しない??


難しい問題ですよね。
ここで、最大幸福か、最小不幸か、という話をさせてください。


デバイス、通信環境が整っていて、学習をやりたい人にとっては、
どんどん動画を配信してもらった方が、嬉しいと思うんですね。
配信しない → 幸福がゼロ
配信する → 受信できる人たちの幸福度が上がる
ということで、幸福度の総和は大きくなりますね。


一方、その環境が整っていない人にとっては、
配信する → 自分は見れない。見れている人との差が広がる。不幸。
配信しない → 不幸がゼロ
このように配信することで、不幸が生まれます。
これは配信しなければ生まれない不幸です。


どちらもメリット、デメリットがあります。
資本主義は割と、最大幸福と相性が良い気がします。
でも、日本人の気質的には、最小不幸という考え方も根強い。


公教育としては、不平等や格差は避けたい。
だけど、少し目をつぶれば、そこに効果的な教育ツールがある。
ジレンマです。


ただ、最初にも述べた通り、
全体的な流れとしては、動画をどんどん配信するために頑張ろう!!
という機運になりつつありますし、その方向で動き出している教員が多そうです。


で、教員のやるべきことって何なのか


もちろん、生徒の学習に対して効果的な動画を作れたら、それは素晴らしいことです。
ただ、それにはパワポの作成、実際の録画、必要なら編集、配信と、コストがかかります。
だから今までできなかったし、やろうとしなかった。それが本音です。


だから多くの教員にとって(私もそうです)動画作成というハードルは、かなり高い。
そんな中で、頑張って動画を撮ります。
教員のことなので、生徒のために、できるだけわかりやすく、良い動画を撮ろうと努力します。
で、良い動画を撮って、配信して、満足。
あー、高いハードル、乗り越えてやったぜ!!と。


皆さんにお願い。
「うわー、先生すごーい」って手放しで褒めないでください!!
だって、本質はそこじゃない!
問題は、どれだけ良い動画を作れたかではない!!
生徒にどれだけのものを与えられたか!!


いくら良い動画作っても、既に同じような動画がオンライン上にあったら徒労。
なかったとしても、自分と他の教員とが同じようなレベルの生徒対象の、
同じような動画を撮ろうとしてる場合もあって、
それだったら全国の教員でシェアしようよ!!
1つの動画にどれだけ時間かけたの?それって持続可能な取り組み??
しかも一方的に配信だけしても、生徒の反応は見れない訳でしょ??


今日、学校の枠を超えた高校教員のzoom会議に参加させてもらいました。
そこで発言させてもらった内容です

「各学校の教員がそれぞれに動画を作成するのって、ものすごくコスト」

「オンラインにある授業で良いものは使えるのでは?」

「同じようなものを我々が敢えて作るメリットは?」

「そもそも授業映像を届けることが、教員として最もやるべきことなのか?」

「むしろ既存の動画を生徒が見たあとのフォローや補助ができないものか」


どうですか?
皆さんはどう思います??


でももしかしたら、彼らが適切な動画選択さえできれば、
「教員による対面授業より、オンライン講師の授業の方が全然わかりやすいじゃん!!」
ってなってしまう可能性もあって(この可能性はかなり高いと思っています。)


そうなると教員としてのそもそも論まで波及する可能性のある、
我々からしたら諸刃の剣のような議論ではあるのですが…。


教育界には、かつてない地殻変動が起こるかもしれません。
それこそ、戦前から戦後のように。


4 コメント

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動画配信に限らず (jin)
2020-04-19 01:02:08
端的に言ってしまうと
何事も・やらずして・望むものも・幸不幸も
生まれない・
試行錯誤するにも・行動が伴わなければ・自慰行為に終わるだけで・生産性もなければ・失敗も無い。
教える側が・迷ってはいけない・迷えば・何も変わらない・非生産性・・幸福になるか・不幸になるかは
受けとめる側のチャンスさえも・奪おう事に
何もしなければ・クラスで云えば・平均値も上がらないし・ある種の感情も起こらないでしょう。
教師は・経験を教えるのではなく・生徒の環境を
様々に変化させる事によって・様々な英知を生みだすきっかけを・作る事になるやもしれません。
完成されたものを・提供しても
ただ・計算を繰り返すような状態・・料理のレシピを
見て・同じような料理が作れるようになるより・
小さな・きっかけでも・独自の創意工夫によって
味のみならず・其の材料や器具の特性・・・・等を知るように・教科書だけを理解できても・創意工夫
臨機応変に 対応できるようにならないと
今の・政府や政策・・・社会行動へとなってしまう・
父親・息子共に 教師ですが・・何だか・何だか・つまらない。与えられた・教科書やマニュアル・知識がこなせたからと云って・様々な場面に対応出来る能力が足りない。・・・因みに・自分は教師になりたいと思った時期もありますが・・やはり日本の教育現場は・つまらないと思って・やめました。今は・違うでしょうが。ひとつ言えることは
幸不幸を考えるよりも・多種多様な考え方・感情を
持てるような・環境を作って頂けたら。
幸せに思います。

・・文法力は全くないので・(笑)・適宜・
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コメントありがとうございます (TK)
2020-04-19 20:15:03
やらずして、何も生まれない。まさしくその通りです。
この休校期間、何も生まれず、最も焦っているのは他でもない教員自身。

ではなぜ、動きが鈍いのか。
大きい組織になればなるほど、小回りは利かなくなると思っています。
記事にも書きましたが、日本では平等、公平、つまり最小不幸的な考え方が是とされるところがあります。教育格差、貧富の格差、男女の不平等などは大きく取り上げられます。
だからこそ難しさを感じています。これがマクロ的視点。
国や県などのレベルでは、良かれと思って出した指示によって不幸な人が生まれてしまう。これは社会の大きな部分を見なければいけない以上、ある程度は仕方がないことだと思います。
私には官僚になった友人もおりますので、彼らが奮闘していることを知っています。政府の動きや政策が、彼らの働きや頭脳によって支えられていることも。批判するのは簡単ですが…。

閑話休題。
私はありがたいことに、クラスの生徒全員がアクセスできるデバイスを持っており、それを使うことができています。だからこそ積極的にそれを利用できます。クラスという小さい単位で動けるため、いろいろな対応ができています。
ではもしも、クラスの中に1人、スマホもパソコンも持っていない生徒がいたら、その生徒に「お前は持っていないから仕方ない」と、その生徒だけを切り捨てられるか?私には難しいです。

現場ではほとんどの教員が、もどかしさを感じています。何かしら生徒に対して、彼らのためになることをしてあげたいと考えています。が、登校できないという現状。翼をもがれたような状態です。

生徒の大切な時期を左右する職業であるからこそ、不幸を生むようなことはしたくないのです。場合によっては、その生徒の一生を左右することもあります。だからこそ慎重にならざるを得ないのが、教員の特性なのかもしれません。
返信する
慎重に (jin)
2020-04-20 03:54:11
同一と同程度は自ずと異なり・全て同じにはできません。凸凹も在れば・向き不向きもあります。其れを個々に異なるやり方を・見出して初めて・平等に近くなるのではないでしょうか。距離感・家庭環境・経済的事情・個々の知的環境や精神的なことも・行動を起こさなければ・何もわかりません。個々の痛みや喜び・・・・其れを見つけ出すことも・教育の一環ではないでしょうか。生徒たちの大事な時期だカラこそ・少しの不幸も改善すべきでは。
批判と捕らえるのではなく・保善・補修・改善と考えれば・いかがでしょう。基準や法律は・最低基準であって・それより改善されるのならば・何ら妨げられるべきではありません。「出る杭は打たれる」と
「討たれる」ことは同じでなく・同じ基準で見る・診る・官僚だけが・国を支えているわけではありません・娘婿の親も官僚ですが・其れに職業柄・多くの職種や地位・に限らず・対等に話をする機会も多くあります。考え方も様々・有益も不易も・集団のみによって構成され・大きな過失を起こしてることも多々。弁護士など・多数の法律家や学者と話をしても・行動の積み重ねが・如何に大事なことか・よく知らされます。
怪我をしても・させても・其れを知ることによって・
自分自身も改善されて行くようです。
「知らないことは気づかないし・分からない」「わからなければ判断も判断する根拠も材料もありません」正否を織り交ぜてこそ平等の根本的な一部に。
水も淀めば・弊害が生まれ・組織が多くなるほど
浄化作用は遅れてしまう。
しかし・恐ろしいコロナでさえも・地球を取り巻く空気は 大きく綺麗になっていることは現実です。
我慢も行動も伴わなければ・変化も改善も無いのかなあと。一本の樹でも・いろいろな役割が。
まあ・聞き流してください・・戯言なので。
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Unknown (TK)
2020-04-21 19:54:44
なるほど、少し理解できたような気がします。丁寧なご説明をありがとうございます。
もちろん平時であって、様々な活動が可能な情勢であれば、個々の状態に合わせた指導や助言、教育活動もスムーズに行えると考えます。しかし現在は、なかなか有効な方策を見出せておらず、可能な範囲の狭さにもどかしさを禁じえません。
その中でも様々な角度から、できる方策、可能性を検討して、状況の変化に応じて行動に移そうとしているところです。

人間、あったはずのものがなくなると、喪失感は大きなもので、コロナウィルスさえなければ今頃できたはずの授業が、なくなってしまったことで、普通にあるはずのものがなくなってしまったことで、それ自体が不幸なものだと感じている高校生がほとんどだと思います。全員が満たされない心を持っている、不幸を感じている。それをどう改善するべきか、様々な活動や再開の時期、我々がやるべきことを、リスクと天秤にかけなくても良いのであれば、どれだけ良いか。

コロナによって、学校行事や教員の働き方、教育のあり方までも、半ば強制的に見直されています。コロナがなければ、こんなにもドラスティックな変革はあり得ませんでした。
生徒たちもまた、様々な考えを深めるきっかけとなっていることでしょう。なぜ学校が再開しないのか、何も強いられない時間をどう使うのか、自分の就きたい職業はコロナでどう変わるのか、などなど。

おそらく、収束したあと、振り返ってみて初めて、「コロナが社会を、教育を、子供たちの意識を、こう変えた」と言えるのでしょう。そこまでは、ひたすらに今考えられるベストを尽くすしかないですよね。誰も経験したことのない、今この時をどう生きるか。平時ではないからこそ、そういう部分が問われていると思っています。
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