こまちゃん

爺婆ふたり生活の日記

トイレで起き上がれない

2010年03月18日 | 親の介護録
(20日に投稿)

9:10頃 父が電話で母がトイレで倒れて起き上がれないと言った
9時までヘルパーさんがいたはずなのにと思って実家へ急ぐと
座り込んでいる母の近くで父がオロオロしている

あたりに便が落ちている

母をきれいにして、パジャマや下着を洗濯して、拭き掃除をしたら
1時間が過ぎてしまった

事情を聞くと
父が手を貸して連れて行こうとしたようだ
自分も車いすの生活なのに母の介助は無理だと分からないのかな

誰もいない時間を減らすために
ヘルパー介助の時間を増やせないかケアマネに電話した

薬の仕分け

2010年03月17日 | 親の介護録
(20日に投稿)

病院からもらった母の薬を仕分けした

いろんな人に飲ませてもらうため
誰でも分かるように朝、昼、夜に分けて袋に入れた

最初の一週間分は日付毎に飲む薬が違うし
血液内科、循環器科 泌尿器科の薬があり
大量である

10時から16時まで実家にいるので
時間がたっぷりあるから親においしいものを作ってやろうと思ったが
あっという間に時間が経ってしまった

在宅医療カンファレンス

2010年03月15日 | 親の介護録
末期癌の母はその治療をしないで在宅で終末期の医療を受けるために明日退院する
今日の午後から在宅医療カンファレンスを開いていただいた

出席者は
よろず相談センターの看護師(仲介)
市民病院の主治医と担当看護師
在宅医療を引き受けてくれる医師(週2日ほど)と看護師2名
訪問看護師(週2日ほど)  
ケアマネの竹中さん
ヘルパー 早朝の介護のために新たにお願いした2名(週6日)夕方の介護のために今までお願いしていた人1名(週6日)
家族の代表として私が出席

最初に今までの主治医から母の病状の説明があった

病名は多発性骨髄腫 陳旧性心筋梗塞(急性期を過ぎた心筋梗塞) 心不全

高Ca血症、多臓器不全で入院し
約1週間で回復したが心機能低下と癌の進行は続いていると
かなり深刻な状態で入院したことや 
入院中にも癌の進行があり予断を許さない状態であることを再認識した

輸血が必要な場合は地域連携システムで
往診の先生から大垣市民病院へ予約をしてくれるそうだ

栄養管理が重要で高タンパク補助食品が良いということでラコールで対応する

訪問看護師は、ほぼ毎日来てくれるようだ
膀胱の残尿でおなかが張るらしい

介護のスケジュールは
月曜日から金曜日は
  7:30~ 9:00 ヘルパー   10:00~16:00  私 
 16:30~17:30 ヘルパー   18:30以降   同居の弟夫婦
とした
土曜日はデイサービスを頼み、日曜日は同居の弟夫婦が看てくれる



今日は午前と午後の2回吐き、ほとんど食事をしていない。
午後に吐いてからは少し気分が良くなったようだ

鼻血が止まらないので診てもらったら鼻をいじるからだと言われた

輸血や最後の治療をしてもらっていた
気分が悪くても家に帰るのを楽しみにしている。

病院からの外泊

2010年03月13日 | 親の介護録
「今日は家に帰えろうね」と
病院のパジャマからピンクの花柄のパジャマに着替えさせた

「家に連れてってくれるのか?」と聞きなおす

着替えを手伝ってくれる看護婦さんが
「かわいいパジャマやね。家に帰れて良かったね」と言うと
嬉しそうに笑ったかと思うと「うぉー うぉー」と泣きだした

車いすごと乗れる介護タクシーで家に帰り
昨日、借りた介護用ベットに寝かせていると
隣のベッドで横になっている父が涙を拭いている

涙もろくなったものだ

「起こしてくれ おしっこ」と言われた時は
ポータブルトイレが準備できていないのでどうしようと思ったが
支えるとトイレまで歩くことができた

案ずるより産むがやすし

心配していたより ずっと良くなっている

今日はビールを飲みたい心境
そうして
明日は弟が看てくれるから
久しぶりに里山(南宮山)にでも登ってこよう

何とかなるさ

2010年03月12日 | 親の介護録
今日は忙しい一日となった。

午前10時に、父の要介護認定変更申請の面談
11時に母の明日の病院からの外泊に向けて介護用のベットの借入設置
12時に父を食事に連れて行き
14時に母の要介護認定変更申請の面談

母の舌が炭を塗ったように真っ黒、うんちも真っ黒
看護師さんに聞くと、いつも出ている鼻血が影響しているとのこと

今週の土、日曜日だけ、一時帰宅して環境等を確認して
来週の月曜日、現在の主治医とこれから訪問診療をしてくれる医者や訪問看護師、ケアマネ、ヘルパー等と家族も含めて打ち合わせがあり
翌日の火曜日に退院する予定

部屋の片づけは十分ではないし ポータブルトイレは来週しか届かない
準備万端ではないが、母のために新しいピンクのパジャマを用意した

何とかなるさ きっと うまくいく


病院で母にカメラを向けるとニコッとした

市民病院 よろず相談センター

2010年03月10日 | 親の介護録
市民病院に入院中の認知症で末期癌の母について
在宅で介護したい旨を主治医に相談した

同院内のよろず相談センターの地域連携を担当している看護師と
ソーシャルワーカーを紹介してくれた

看護師は非常にたくさんの情報を持っていて
訪問診療をしてくれる医者や看護師
朝から対応してくれるヘルパーのこと等
どうしたらいいか途方に暮れていた問題にテキパキ解決策を提案してくれて
それらの所に連絡を取って調整してくれるという

何とかなりそうと思ったら涙がボロボロ出てきた


夜、ケアマネから介護用ベッドは金曜日に届くと連絡があったので
明日はベッドが置けるように部屋を片付けようと思っている

終末期ケア

2010年03月06日 | 親の介護録
母は多発性骨髄腫の末期です。
年齢や体力等を考えて癌治療はやめて緩和治療のみにする
この決断は家族や医者と話し合い決めたが気持はすっきりしている訳ではない

母は、現在、入院中で一日中、強心剤や栄養剤を点滴し、寝たきりの状態であるが
来週半ばには退院と言われている。

入院中に認知症も進み、
寝たきり状態が続いているので歩くこともできなくなったと思う

退院後の生活は、病院や施設に入る方法と自宅で在宅緩和ケアを受ける方法がある。

退院するために現在の点滴を止めたら、状態はすぐに悪化する気がする。
しかし
このまま、入院を続けたり、転院や施設にお願いしても
徐々に体力が衰えるのを待つだけになる気がする

母は今、どこにいるか、良く分かっていない
しかし、家に帰り、父のそばにいるのが一番幸せなはずだ
「できるかどうか分からないけど、家に連れて帰ろう」と思う

インターネットで調べて、少し遠いが在宅療養をやっているクリニックが見つかった
弟や父ともう一度話し合い
このクリニックに相談に行ってみようと思う

父の涙

2010年02月28日 | 親の介護録
2/26の朝、父の右手が動きづらいと連絡があり病院へ連れて行った。
軽い脳こうそくということで急きょ入院が決まった

2/27の朝、父の病室に朝刊を持って行くと
「秋子が載っていない」と言う

意味が分からず顔を見ていると
「お悔やみ欄に秋子が載っていない」と言った。

冗談を言っているのかと思い笑顔で
「母さんは元気になったよ」と言うと
「死んだんじゃないのか?」と真剣な目を向けてきた

自分が入院する前日に意識不明の母を見舞い
次の日に、思いがけず自分も入院し病室で寝るという環境で
昨夜は悪い夢でも見たのだろうか

「母さん、急に良くなってきたよ。」と
もう一度言うと父の目からみるみる涙があふれた

「良かった。死んじゃったと思った」
と何度もつぶやいて何度も涙を拭いた

60歳の私が父の涙を見たのは初めてである
父は泣かないと思っていた

数日前、母の危篤を伝えた時も気丈にしていた


次に
母の病室へ行くと、認知症の症状は出ているが父のことを気遣っている
母には父の入院を伝えたが理解できないようだ

同じ病院でも二人とも医者の許可がないから車いすに乗せられない
どちらかに許可が出たら少しでも早く会わせてあげたいと思う

とりあえず
二人とも生命の危機は少なくなったから良かった
一番嬉しい。

小康状態

2010年02月23日 | 親の介護録
母の病室が変わった。

個室に入らなければならない人が来られたようで
ナースステーションの北の治療室のような部屋に入った。
病室ではないので部屋番号はない。

医者に今の状態を聞くと
「多臓器不全は解消され、生命の危機は脱しました。
今は心不全と多発性骨髄腫の治療が必要ですが、
この心臓の状態では抗がん剤を使うのは無理だし、
心臓が良くなったら今後の治療について相談しましょう」と言われた

入院した時点では呼びかけに応じず、目も開けなかった
次の日は、呼びかけるとニコッとして劇的な回復だと大喜びした

だが、昨日も今日も、呼びかけるとこちらは向くが、無表情である

声が聞こえているのかと思い
母の手をとって「私の手を握って」と大声を出しても反応がない

血液内科の先生と循環器の先生が相談しながら治療をしているようで
ただ、見守るよりしかたがない

多発性骨髄腫

2010年02月23日 | 親の介護録
母が多発性骨髄腫と診断されたのは7~8年前 70代後半の頃です
この頃、「末期に近く余命数カ月」と言われました

最初の1年ほどは入院や通院で抗がん剤を使いましたが、副作用も少なく検査結果は非常によくなりましたが、関係あるか分からないが、軽い認知症になってきた

3年程治療しましたが、その後は検査のみで経過観察の時期が2年ほど過ぎた頃
突然、倒れたり、意識をなくして救急車で病院へ行くことが度々あり
数度目に心不全で入院した折
「次にこういう状態になったら命の保証はありません。そう遅くない時期になるでしょう」と言われた

「母は心臓の病気で亡くなるのなら、嫌がっている血液検査を続けるのはかわいそう」
と思い、多発性骨髄腫の経過観察をやめることにした

それから、数年、認知症は進んで行きましたが、穏やかな時間が過ぎていきました

食事がとれなくなり、歩行が困難になり、近所の医者で点滴をしていました。

急激な様態の変化があったわけではないけれども
「大きな病院で診てもらいたい」と思い
長い待ち時間を耐えられる様子ではないので、市民病院へ救急で行きました。

最初は
「入院する部屋がないのでここで、少し治療したら帰ってもらいます」と言われ
「入院できる他の病院を紹介してもらえないか」と頼んだ。

しばらくして
「ここに、入院してもらいます。多発性骨髄腫の悪化から多臓器不全(死に至る上で誰もが通る過程)になっています。状態は非常に悪く退院できることはないでしょう」と言われ、死が近いことをほのめかされた。

「2か月ほど前から肩が痛がっていました」
「同じ頃に鼻血が止まらなくなり耳鼻科で治療してもらいました」と言うと
「その頃から悪くなっていたのかも知れませんね」と言われた

この時点で呼びかけても返事もしなくなった。

多発性骨髄腫は最終的に死に至る病気で治す方法ないが、治療をすれば病気の進行を遅らせることができます。

多発性骨髄腫は一般に60歳以降に生じ、遺伝が関係していると考えられているので
私も60歳になり、健康診断を受けていこうと思っている

入院から4日経ったが、経過は驚くほど回復しているように見える

病院へ行きたいので今日はこれまで。

ノロウイルス

2010年02月16日 | 親の介護録
昨日、父から電話があり、母が下痢と嘔吐があるという。

実家に行くと
「頑固な便秘が出てすっきりしたよ」と顔色も悪くない。
少し安心して
汚れたトイレを掃除し、嫌がる母のお尻もお湯できれいに流し
おかゆを作ったが、寝てしまったので
「起きたら食べさせて」と父に言って帰った

夕方、同居の弟から電話があり
弟は2、3日前に下痢と熱があったけどすぐ治ったという

気になって今日も行ってみた。
様子がおかしいので病院へ連れて行ったら
やはり、ノロウイルスだろうということで治療をしてもらった。

父にうつらないようにするにはどうしたらいいか医者に聞いたら
「この間、天皇陛下も、ノロウイルスにかかり、感染経路はまったく分からないという。
だから、一般人はもっと予防はむつかしいよ」と言われた。

父や私にうつったら看病するものがいなくなる
(母を早く治さないと)とあせります

明日も病院で点滴をしてもらおう

父のがんばり

2009年12月18日 | 親の介護録
週に2回 介護で実家へ行っているが
今日は、母の通院に付き添うために昨日と連続で訪れた

「おはよう」
と声をかけると
「久しぶりやな」と母が答えた
「昨日も来たやろ」
「そうやったかな?」と笑っている


買い物と外食に連れて行き、午後からの診察時間になった

「病院に行ってくるでね」
とベットに横になった父の顔を覗き込んで声をかけた

1時間以上時間がかかった
薬待ちをしていると、携帯電話がなった

「秋子がおらんのや」と慌てた父の声
「今、病院で一緒にいるよ。もう少ししたら帰るでね」

家に帰り、ベッドに腰をかけている父に
「ただいま」と微笑みかけると
「うとうとして 起きたら秋子がいないでびっくりした。
病院に行くと言っとったな~」と照れ笑い

父は母の認知症が進んでいくのをみて
自分がしっかりしなきゃと思っているようだ

失礼。間違えただけなんだ

2009年07月16日 | 親の介護録
先日、母の失敗について書いたけれど違うってことが分かった。

今日も、出先でトイレに行ったあと
ズボンのお尻あたりが濡れている事に気がついた。

「また、失敗したかな」と思ったけれど、
良く見ると、おしりから背中にかけて濡れている

先日も少し変だなと思ったけれど
おしり洗浄のボタンと便器洗浄のボタンを
間違えて押してるじゃないかなと気づいた

母に聞いても、
責められていると思っていやな気分にさせても可哀想だから
今日は黙っていて
次は「洗浄ボタンは押さなくてもいいよ」と言おう。

自動で流すものもあるが、流さないものもあるので
その時は私が流せばいいんだ