100年後の君へ

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杉田善昭刀匠の想い出2

2012年12月26日 | 杉田善昭刀匠の想い出

 ある時、氏は東京国立博物館に自作の太刀を持参したそうだ。
 当時新作刀コンクールの審査員をやっていた東博の刀剣責任者に見せるためである。
 いきなりやって来た氏に対し、責任者は作品を一瞥するなり明確なコメントは避けた。そこで氏は、「一文字は名刀である。その一文字は裸焼きで作られている。自分の作品は裸焼きである。ゆえに自分の作品は名刀である。」という自説を展開した。
 こういう短絡的で思い込みの激しい人物と議論しても埒が開かないのは、大人なら誰でも判っていることだ。
 そこで責任者は奥の部屋から一振り取り出して氏に見せた。国宝指定の一文字吉房・通称岡田切りである。
 論より証拠。名刀の何たるかは名刀に語って貰えば良い。それで判らなければ名刀を語る段階ではないということである。
 しかし氏は「自分のと同じじゃないですか」と捨て台詞を吐いて部屋を出た。

 ―裸焼きへの想いが強過ぎたためか、氏は上記のようなエキセントリックな行動を取る傾向があった。

 私の家に何の連絡もなく作品を送って来たこともある。
 宅急便の箱の大きさから脇差のようであったが、送り先を間違えたのだと判断した私がすぐさま電話を掛けると、「どうですか?」と言う。
 成程、買って貰いたいから送って来たのか。しかし脇差はいらないのでその旨を伝えると、今度は太刀を送って来た。
 その時はてっきり氏が作品を買って貰いたくて送って来るのだろうと思い、「送られて来ても困りますから・・・」と断ると、「暫く見ていて下さい」とのこと。
 氏が作品を送って来た目的は、私に自分の作品を見せて、コメントを求めるためだったのだ。
 私は愛刀家だ。どんな刀とも真剣に向かい合う。刀と切り結ぶ極限の緊張感でもって鑑賞することにより、自分の精神を高めたいと思っているからだ。
 そこに軽々しくコメントを求められるのは不愉快だ。
 そもそも自分のものでもない刀を自宅に置いて鑑賞するなどという、乞食のような真似は私にはできない。
 しかし氏にはそうした愛刀家の気質が理解できなかった。

 刀剣商に対しても氏は同様の意味不明な行動を取っていたようだ。
 いきなり刀屋に行き、自作の刀を見せる。刀屋は愛刀家ではないから求められるままに見る。
 値踏みのためである。
 値踏みは商人にとっての真剣勝負だ。ところが氏は商談ではなく作品へのコメントを得ようとする。
 刀屋は商売で刀を見ているのだから、コメント目的で店に来られては迷惑だろう。

 そういう非常識というか、自己中心的というか、他人の迷惑を省みない所が氏にはあった。
 それでいて先方が対応にあぐねて言葉を濁すと、この人には見る目がないと逆恨みするのが常だった。
 それが氏の対人関係を危うくした。

 私との気まずい別れも、氏の作品に対して敢えて明確なコメントを避けた私を、氏が軽侮したのが一つの理由でもあった。

 氏の人生は裸焼きに支配されていた。
 取り憑かれていた、と言えるかもしれない。





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