100年後の君へ

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杉田善昭刀匠の想い出4

2013年09月11日 | 杉田善昭刀匠の想い出

 私が氏と親しくしていたのは、氏が結婚した頃だった。
 当時氏は、「これを最期の時に使います」と言って自作の短刀を見せてくれたものである。
裸焼きによる丁子刃が元から先まで高く焼かれ、身幅やや狭く重ね厚め。切っ先鋭く反り少なく寸伸びごころ。切腹するのに適した形態だった。

 人が自殺する理由は、健康上の問題や経済的な問題、社会的な責任問題等、様々だ。いずれにせよ氏は、刀が作れなくなった時が死ぬ時だと思っていたのだろう。いかにも芸術家らしい最期である。
 俗人なら死を決意しても、家族や身近な者が悲しむかもしれないとの煩悩が心をよぎり、自殺を思い止まってしまい勝ちである。
 氏にとって家族は死を思い止まらせる理由にはならなかった。
 もっとも昨今は家族の存在こそが自殺の原因となっているケースの方が多いかもしれない。
 全身麻痺の天才科学者S・ホーキングは妻から虐待されていたというし、先日も横浜国立大学名誉教授が妻から日常的に暴行を受け外傷性ショックで死亡するという事件があった。
 学者や芸術家のように自分の仕事に集中しなければならない者は、結婚などしない方が良いのかもしれない。 

 氏は自決用の短刀を見せてくれた頃、私に結婚についてアドバイスもしてくれた。当時私は国際結婚を控えており、同じく国際結婚の氏は入国管理局に提出する書類等について親身にアドバイスしてくれたのである。その気持ちは今でも嬉しく思っている。
 しかし氏にとって結婚生活はあまり楽しいものではなかったようだ。
 と言うのも、氏は私の婚約者のことは興味を持ってあれこれ聞いて来たのに、自分の奥さんの話は殆どしなかったからである。
 実際、自宅での氏はいつも元気がなかった。
 氏の仕事場は自然に囲まれた山奥にあり、自宅はその山の麓にあった。仕事の邪魔にならぬよう夜自宅に電話すると、氏の声はか細く小さく、受話音量を最大にしても聞き取れないことがよくあった。普通はそこまで受話音量を上げると耳が痛くなるのだが・・・。

 そんな時でも氏が語るのは裸焼きへの強い想いだった。

 氏と酒を酌み交わし夜を徹して語り合ったことも何度かあるが、氏はいつも裸焼きの話しかしなかった。世間話など一切せず、裸焼きの話だけを何時間もした。
 氏が語った技術論はそれだけで一冊の本が書ける程だが、一般人には退屈なだけなので省略する。
 一つ言えるのは、裸焼きには尋常でない感覚と集中力が求められるということである。

 氏が生涯で作った作品は100振りに満たないだろう。裸焼きは非常に難しく、10~20振りに一つしか成功しない。それも殆どが短刀と脇差で、長い刀は年に一、二振りしかできなかた。それすらできないこともあり、ある年の新作刀コンクールでは以前作った刀を所有者から借りて出品した。

 そこまで一つのことに拘って死ねたのは、ある意味で幸せな人生だったと言える。しかし極めて狭い生き方だったとも言え、事実氏は裸焼きゆえに周囲と軋轢を招くことが少なからずあった。
 氏の性格なら結婚していなくても自殺はしただろう。
 それでも結婚によって人生が複雑になり、余計なストレスを抱え込むことになったのは間違いないはずだ。

 それにしても一人の人間の人生を左右した裸焼きとは何だったのだろう?

 裸焼きは火と水という自然界の根源的な力を完全に制御しなければ成功しない。
 火と水と一体となり、火と水があたかも自分の身体の一部になったかのような感覚でその力を利用するのだ。 
 それだけに成功した時は他に比べるものがない感動がある。
 その時、作者は自然と一体化し、そこに住まう神と合一したような錯覚に陥る。
 その感動=錯覚があるから、経済面や家庭生活が崩壊しても気にならないのだ。
 俗人が俗人たる所以である経済面や家庭生活への未練。氏がそれらを躊躇なく踏み越え、冥界に旅立つことができたのは、裸焼きによって感じた神妙な錯覚のなせる業だったのかもしれない。

 社会が機械化し、情報化が進めば進む程、身体への回帰が叫ばれる。
 しかし文明の本質とは、他ならぬ身体を否定する所にこそあるのではないか。
 身体を通して自然を感得し、生命で満たされた世界を実感する。これは極めて日本人的な感覚である。神道の淵源もこのように身体で感じ取る生命の充溢感にあるのだろう。
 だが身体的な実感など本当は単なる情報に過ぎないのである。それを誇大に評価するのは倒錯でしかない。我々人間は個人的な身体を離れ、社会的な情報の一部となることによってのみ、現実的に生きられるのである。人間にとっては、自己も他者も、自然も身体も、全てが情報である。だから身体に捉われてはいけない。

 あくまでも身体的実感に捉われ続けるとどうなるか。
 ──自分も家族も皆が不幸になるだろう。

 杉田善昭刀匠の人生がその顛末を端的に示していると思われる。






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