十和田自然農園

鹿角またぎ自分史 …75年生の足跡~エンディング録です

工藤家の盛衰と母の運命

2013年06月19日 14時41分46秒 | 日記・エッセイ・コラム

 鹿角が最も緑に映える頃…私は母を失いました。
 6月19日は母の命日です。 あれから44年の月日が経ちました…

 6月、青垣山のアカシアが咲きだし、山郷に甘い香りが漂うと…昔の生活や母のことを思い出すのです。


 昨夜はまた、母の幼少期の夢を見ました。 誰かに聞いた話を元に、いつの頃からか夢を見るようになりました。 幼い母が遊び回る様子を、私が泣きながら空の上から見下ろしている不思議な夢です。

 それは母が2歳の頃、父親「工藤 新(あらた)」が尾去沢鉱山の落盤事故で亡くなった昭和5年5月10日のこと…何も知らない母は、むじゃきにハシャギ回って遊んでいる光景です。 「工藤 新」(私の祖父)は、僅か29歳の若さでした。


 明治~大正にかけ、隆盛を極めた不老倉鉱山で雑貨商を営み財を成した工藤家も、大正末期か昭和初期?頃、斜陽の不老倉鉱山を引き上げ、旧南部藩・秋田藩境の
土深井に移り住み雑貨店を開き、事故前の一家は…世帯主の「」、妻の「はな」、2歳の「はるえ」(私の母)、ほかに「」の妹2人・弟1人・母親(オンギ・祖母(の父の母)の計8人家族で暮らしていたようでした。

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  《 南部・秋田藩境の土深井村はずれ 》                《 工藤商店があったと言われる…尾去沢銅山番所跡 》


 
土深井尾去沢鉱山間には6kmの馬車軌道が敷かれ、尾去沢山許との物資・鉱石を運ぶ玄関口として栄え…大正4年(1915年)には、秋田鉄道の尾去沢駅(貨物駅)が開業し、昭和18年(1942年)土深井駅 に改称された後も鉱山景気の賑わいが続いた土地です。

※飛鳥時代の和銅元年(708年)銅・金山が発見され、昭和53年(1978年)閉山まで約1300年の歴史を誇る。 〔 昭和9年…尾去沢山許~陸中花輪駅間に架空索道(鉄索)が開通し、鉱石輸送は陸中花輪経由となったが、物資輸送は尾去沢駅馬車軌道も利用していた。〕


 父親の「」も、店を家族に任せて自身は尾去沢鉱山へ通い、職工として働い
ていたのでした。 気丈な嫁「はな」は、姑(オンギ)&「」の祖母との確執があり、悩み苦難の多い生活であったようです。

 私と妹は小学生頃に、曾祖母(
オンギ)とも花輪町で一緒に住んだことがありますが…家事を一切手伝わない人なので、くたくたに疲れて帰って来る母と毎日喧嘩が絶えず、その嫌な体験から察するに、嫁「はな」にしてみれば姑2人分の苦痛は相当なものだったと推測できます。  


 2歳の子供を残し、まさかの…夫を失った「
はな」は、悲しみに打ちひしがれ傷心のさ中…姑(オンギ)達からは、もはや工藤家には無用と邪魔者扱いされ、ついには単身追い出されてしまったのでした。

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  《真冬の2月、数百年続く裸参りが隔年行われる山神社…無病息災・五穀豊穣祈願、鳥居の大注連縄も奉納! 》

 物心がついた頃の母は、祖母(
オンギ)に『お前の母親はお前を捨てて逃げた』といつも教えられ、そして『お前は親が居ないので仕方ないのだ』と…食べ物から着るものまで、差別され育てられたので、ずっと母親を恨んで生きていたそうです。

 私も妹も小さい頃から、何のことかさっぱり分からないのに…曾祖母(
オンギ)と叔母(ソノ)からは、会う度ことある毎に『お前達の母さんの母親(はな)は、生まれたばかりの母さん(はるえ)を見捨てて、北海道へ逃げたんだ!』と、同じことを何回も何回も、一方的に言い聞かされたものでした。

 勿論、その姑達の行為は…尾去沢鉱山から妻と子に対して支払われる【補償金・保険金】目当ての独り占め作戦だったことは明白であり、そのために、「」の子「
はるえ」は渡さず、「はな」が乳飲み子を置き去りにして、自分だけかってに逃げた『非情な女』であるように演出した訳です。

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  《 大正生まれ地元の方の証言によると、店舗は村の中央この辺りにあったとのことです。》

 後に、真相を教えてくれた人は数人おり、『姑(
オンギ)が金欲しさに邪魔な嫁(はな)を、死にもの狂いで追い出したのが真実である』 との内容でした。

 尾去沢町の山方?(松子沢ダムの近く)に…「
はな」おばあさんのルーツである三戸郡から尾去沢鉱山へ出稼ぎに来ている方の親戚の家がありました。私はそこへ小学3~4年頃に何度か預けられ泊まったことがあり、母が最も信頼しお世話になった方達でした。
 その三戸郡から来た方の名前は忘れましたが、上郷村「
日向家」と繋がりのある遠い親戚のように記憶しております。

 高校を卒業した昭和41年の
春…アルバイトの仕事で、そこの家へ配達に行ったことがありました。山道はうっそうとした杉林に変わっていましたが、幼い頃お世話になった家とすぐ分かりました。 年老いた女性に配達文を手渡した後、雑談しても全く気付きませんでしたから  玄関にオシッコした「」です!” と言ったら、びっくりして思い出してくれ急にボロボロ泣きだしてしまい…私も涙が止まりませんでした。

 勤務中でしたが、 玄関に腰掛けて昔の話を思いの晴れるまで聞かせてもらい、こんなに我々親子のことを心配してくれてたんだと、改めて三戸
『日向』の真心を感じたのでした。 今書いていることは、この時の記憶が主です。 当時、心臓を患っていた母でしたが『元気にしてます!』と嘘をついて別れ、47年前のこれが最後の…お礼の挨拶になりました。


 祖母(オンギ)達に洗脳され続けてきた母も、この方達からの情報が真相であると確信したようで…真実を聞かされ、私を連れて北海道岩見沢に住んでいた母親「はな」さんへ会いに行ったのは、私が6歳頃(昭和28年)、母が25歳の時だったと思います。

 私のうつろな記憶には…汽車に乗り、初めて『
甘納豆』を食べたこと、母の髪型がサザエさんのような髪型だったこと、船に乗る前どこかの家に休憩したこと、夜船に乗り、船は小型で木の葉のように揺れ酔って気持ち悪かったこと、北海道の汽車は遅く長い時間走り、ようやく着いたところは岩だらけの汚い土地で小川の側に長屋があり、その狭い部屋で「はな」おばあさんに会った事、何故あんなところに連れて行かれたのか分からず、母を憎んだことを覚えています。

 後に、船に乗る前訪問した家は…「
はな」おばあさんの妹さんの家(青森市青柳町)であることが分かりました。
 このまま何処かへ捨てられるのでは?と思うほど、本当に苦しく怖い旅でした。

 ただし、いつもは怖い母が帰りは別人のように優しい母に思えました。 帰りの船は、とても大きく(青函連絡船) 沢山の人が乗っていました。
 今から… 60年前の体験です。



 姑(
オンギ)は、嫁の「はな」を追い出した後、長女(ソノ)に婿をとり何もかも上手く行ったと思ったところでしたが…根っからの強欲・根性悪の本性が裏目に出て婿との確執も増大させ、挙句の果てに今度はこともあろうに、婿を工藤家から追い出してしまったのです。 

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 嫁「
はな」を追い出した後…姑「オンギ」は母「はるえ」を連れ土深井を出て、花輪町の関善酒店近くの鍛冶屋に後妻として入り、1女をもうけていました。
 それなのに…工藤家を出たはずの姑「
オンギ」が、何のために何の権限があって婿を追い出すため、わざわざ花輪町から通って来たのか謎である。

 また、次女(
ウメ)は長女(ソノ)より先に花輪町の高杉家へ嫁ぎ、土深井を出ていました。

 長女(
ソノ)にはすでに娘2人・息子1人が生まれ、婿を追い出した工藤家も小さな雑貨店だけでは生活が苦しくなったのか、ついには長女(ソノ)までも子供を連れて婿の後を追い…自ら工藤家を出て、旧十二所町猿間へ行ってしまったのです。

 工藤家の次男(貞雄)は昭和11年5月5日、19歳で病死しており、1人残った祖母(故「」の祖母)は、いつこの世を去ったのかは不明である。

 正に…工藤家に嫁いで来た強欲非情な姑(
オンギ)と祖母達の悪行に、ご先祖様から天罰が下ったような衰退、滅亡ぶりである。


 工藤・日向・一条の血筋を受け継ぐ私の時代も…すでに66年の歳月が流れ、そろそろ『死ぬ準備』の自分史作りのため、2013年は家系にまつわる歴史とルーツを記録に遺したく、今回は
土深井で『工藤商店』の聞き取り調査を行いました。

 その結果…現在、
土深井地区集落53世帯に男性の大正生まれは生存しておらないのか見つからず、90代のお婆さんが数名おりました。尾去沢の中新田から土深井に嫁いで来た方が最高齢の94歳でしたが、残念ながら情報が得られませんでした。

 たまたま通りかかった畑で農作業をしていた中年女性に話かけたところ…その方は、隣町の旧十二所町葛原から嫁いで来た方でした。工藤商店の長女は、葛原のすぐ隣村の猿間へ行ったことを告げると、実家のある葛原に大正生まれの人が居るので、もしかしたら知ってるかもしれないとのことで、二日後にまた畑に行き、その方から『
重大情報』が得られたのです。 「佐多六の妻とシロ」が南部領を所払いとなり藩境に住み着いた村…シロを祀った老犬神社のある土地です。)

 昭和初期に、番所跡辺りに店があったこと、そこの住人は旧十二所町へ移ったこと、ただし苗字は『片山』だと言うのです。婿の実家が『
中山』なので、大正生まれ老人の勘違いでも…私は良いと思ったし、工藤家が出た後に住んだのが『片山さん』でも良いと思い、この情報は採用しました。


 いずれにせよ工藤商店には、最後に長女「ソノ」と子供達3人が残った訳であるが、故「」やご先祖様を供養しなかったため、非業の死をとげた故「工藤 新」が玄関先に座っているとの噂がたち、店は閉店に追い込まれて婿の実家のある十二所町猿間へ引っ越し、建物は解体されたと言うことでした。

 本当かどうかは知る由もなく、話を聞いた私は『
おじいちゃんが幽霊 に出たんですか~ 』 と、言うしかありませんでした。 幼少期に猿間へ遊びに行くと「ソノ」さんから、“仏様は絶対粗末にするなよ!”と必ず言われた意味は、この事だったんですね!  


 実は工藤家の墓地は、花輪町(現 鹿角市花輪)の長年寺にあり、
明治時代からのご先祖様の墓石が立ち並んでいます。 その中で、「」おじいさんの墓石だけが白くて立派で…弟分とか子分とか、何故か母の名前も刻まれております。
お墓を建てる時に寄付してくれた方達の名を残しているのでしょうが、あまりに不憫なので2歳の母の名も記したものと思われます。

 小学生頃は…朝5時半に起き、ご飯を炊いて、板の間を雑巾がけして、顔を洗って、仏壇と神棚にご飯と水を上げるのが私の仕事(役目)でした。冬は水桶に氷が張り金づちで穴を開け、囲炉裏で沸かしたお湯を注いで溶かすのです。ご飯は台所のかまどで炊き、鍋の汁物は母が
囲炉裏で煮炊きしました。

 学校から帰ると、毎日の水くみが大変でした!小学5年頃まで長靴を買ってもらえなかったので、真冬でもすり減ったゴムの短靴を履き、天秤棒を担
ぎ雪を漕いでの水汲みでした。

 冬は天井のある寝床でも氷点下になるので、蒲団をすっぽり被って寝ていました。吹雪の夜は…翌朝、枕元に雪が積もっているのです。

 お盆は…髪を整え正装して墓参りに行きました。貧乏なので、庭のセイタカあわだち草のグラジオラスのを持ち、この日だけはお墓に上げた赤飯とトウモロコシとお菓子が全部食べられるの
で、喜んで行ったものです。 よその家は対外、お父さんもいました。 我が家はいつも母と私と妹の3人だけでした。

 母は、
私が小学4年頃までは新田町のマルコー缶詰工場で働いていました。日給120円でした。 5年生頃から…夏は米代川での砂利採り(日給200円)、冬は食堂で働くようになってから、長靴や電機釜やプロパンガスこんろ等の文化生活に変わりました。

 しかし、成人式のために母が買ってくれた略礼服や、バイクや、妹のミシンや、電化製品の月賦払い領収書が、仏壇の引き出しから沢山出てきたところをみると、全て多額の借金をして買っていたことが分かりました。

 私の家族も妹の家族も、今日あるのは…母や「
はな」おばあさん・「」おじいさんが見守ってくれていたからではないか?と、思うこの頃です。  

  Dscf1883 《 秋田藩境~尾去沢鉱山へ通じる土深井村はずれの供養塚

 長女(
ソノ)は6年ほど前94歳で亡くなり、大正4年生まれの次女(ウメ)は今年98歳になり、神奈川の息子のところに身を寄せています。

 長女(
ソノ)の子供達5人は、十二所町猿間(現大館市)へ移ったのちも工藤姓を名乗り、長男(幹雄)が工藤家を継いだが30代で他界…今は、長男の嫁が家&墓を守っているようです。


 嫁(はな)と婿を追い出し、工藤家を守るどころか家族の絆さえめちゃくちゃにした強欲・非情な祖母(オンギ)のために…幼い母も、母親(はな)から引き裂かれ花輪町へ無理やり連れて行かれる運命に変えられたのでした。

 祖母(
オンギ)が、花輪町でもうけた娘と一緒に過ごした母は『お前は親が居ないので仕方がないのだ』 と、食事・衣服・学用品まで差別され、学校時代はコンプレックスの日々を過ごしたと、よく話していました。

 
 そんな臨機応変に歩んできた祖母(
オンギ)の身にも…悪運が尽きたか?主が間もなく他界、親族会議のすえ、娘ともども追い出される結末が待っていました。

 3人は、関善酒店に関わりのある先祖の誰か(さめ?)が以前住んでいた万山林の古い小屋のような家に住むことになりました。 私が小学時代に曾祖母(オンギ)とも住んだのは、この家です。もの凄く根性悪の婆さんなので、私も妹も…この婆さんが数ヶ月単位で泊りに来ると、嫌悪な日々を凄しました。


 2013年の6月は土深井通いをしましたが、まるで 浦島太郎 のような感覚を覚えました!
 94歳のお婆さんは、『 来るのが10年遅かった!』 と、言ってましたね!

 母の戸籍謄本(尾去沢町字中澤四番地)には、
青森県三戸郡上郷村大字遠瀬字新田 で生まれたと記されてあり、母親「はなの実家でした。

 上郷村(現田子町)は、不老倉鉱山の
来満峠 を越えたところです。 何故、母が上郷村で生まれたのか? 66歳にしてやっと謎が解けました。
 一条保 のルーツ母方の「工藤」を辿ると…大正末期~昭和にかけ、「工藤家」の壮絶な歴史(末路)が見えてきたのでした。 この事実は、一条の子孫へ引き継ぐため 必ず遺さなければなりません!

 次回は、母
はるえが生まれた…旧上郷村を訪ねてみたいと思います。

 続く ・・・


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