alternativeway

パリ、カフェ、子育て、サードプレイス、
新たな時代を感じるものなどに関して
徒然なるままに自分の想いを綴っています。

再び異なるものの見方で

2011年10月15日 | 子どもから学ぶ


 信じる というのはどういうことなのだろう
そうかも と 思えるというのは一体どういうことなのだろう
何かに合点が行くというのは その人の価値観や体験に
それがそれなりに説得力を持ったものとして
映っていたからで だからちょっと半信半疑で
そうかなあ そうかもね?と思って人は新しい価値感を
受け入れてみようとするのだろうか。


 最近私は 私って頭がおかしいだけなのかしら
 
 と思うこともよくあって でもまあ普通に人と
話は通じているし どうなのかわからないけれど
なんだかまた ボーヴォワールやブルトンなんかが読みたいなあと思う。


 世の中には 世界を変えた人がいる。
ボーヴォワールもブルトンも スティーブジョブスも
そういう人で そういう人たちは まわりの人とは
かなり異なるものの見方をしていて まわりから
おかしい人だと思われていた だけど彼らにとってみたら
まわりの方がおかしいんじゃない?と思うことも
多かったろう どっちが正しいとかではないけど
ジョブズについてはよく知らないけど
私はブルトンとボーヴォワールが開いた世界は
もっと追求されてしかるべきなような気がするな


 結局彼らは それはジョブズもそうかもしれない
「人生こんなもんなのか?」ってそう思ったわけだろう
ブルトンは嘆いてた。「幼児時代が終わってしまったら
人生はもうくすんだものでしかないのだろうか?」
だけど彼は最終的にはこう言えた。「私は今まで
私が夢みたように生きてきました、、、」
(こんなこと言ってみたい!)
ボーヴォワールはこう言った。「私は毎日
少しずつ高みに向かって生きていた。窓辺に映る女達の生活が
私の身にも降りかかる運命なのだということに気づくと
私は不安にかられた。私もこうなる運命なのだろうか?
いや 違う 私の人生はどこかに到達するのだ。」


 「こんなはずじゃない 人生はもっと違っていたって
いいはずだ、、、」ときっと彼らは想い強く願い
何かを想い描いてみたのだろう。ブルトンとボーヴォワールがしたことは
彼ら自身がかたくなにとらわれていた固定観念からの開放だった。
彼らはとても とらわれている人だった。
藤田だってそうだった だから彼は パリで
日本からもってきた絵の具箱を叩き付け
今までの人生を捨てることにした。


 私もずっととらわれていた。 自分を縛っていたものは
日本的な固定観念だったけど それにとわられがんじがらめに
なっていたのは 他ならぬ自分自身で もしも誰かが
「そうじゃなくてもいいよ」と言ってくれたとしても 私自身がガチガチに
縛られてたから ほどくことができなかった。


 彼らはパリで カフェという自由な場に会い
圧倒されて 目が丸くなり こんな世界もありなのか!!!と
本当に驚いた。私も昨年の6月にパリのカフェのテラスを眺めて
なんだか本当に驚いた。そうしてパリのカフェに出会って人生を変えていった
マンレイなんかはこう言っていた「芸術家がするべきことは
自由と快楽の追求であるべきだ。苦しんでいる芸術家がいるとすれば
それは束縛から自由になっていないのだ」これは彼自身も
とらわれていて かつ開放されたから言えることなのだろう。


 とらわれから開放されてものごとを全く違う視点で
眺めてみたら どうなるのだろう。 私は21世紀の思想に
興味があったけど よく考えたらガチガチに20世紀どころか
近代の 計れるもの 目に見えるものの思考にとらわれていた。
だけど5次元があったなら?本当は パリにいた彼らが
感じたように目の前には2つの異なる世界が広がっていて
地図で計れる「実際の」距離なんて 簡単に超えてしまえる
何かがもしも あったなら?心理的距離感が「ぐわん」と
近づきなにかが揺らいでしまったときに そんな距離なんて
もしかして意味をなさないのでは と思うこともあるのだけれど


 子供たち は 自信に満ちて この世に生まれおちてくる
彼らはどこからやってきたのだろうか?それすらもよくわからない。
彼ら子供はあんなにも自信があって柔らかい頭をしている
そこに大人達はがんじがらめな価値観をつめこんでいく
その教育はもう2歳くらいからはじまってるから
学校に行った頃にはその子の頭もそういう色に染まっているのだろうけれど
私たちが教わって来た 世界の見方やものの見方が
数字や見えるもので全てをはかって 過去と未来が
存在していて 世界には沢山の国が存在していて
戦争が絶え間なくって 世界はとても難かしくって
だから身を守ることが大切で、、、


 そういう不安な価値観に 何かを信じられなく
なってしまったから 目にみえるものを頼りにすれば
大丈夫なんじゃないかというような そういう
不安や怖れからはじまっている価値観に 私たちは
染められていく やれあれが必要だ 家も買って保険も入って
おそらくそれが とても大事なことなんだけど
でもそれが 本当に?本当に どれくらい大事なことなのかは
私にはなんだかわからない。


 私はずっと不安で自信もなかったけれど
子供というのはどうやら普通 相当な自分は愛されている、
愛されてしかるべきという自信をもってこの世に生まれて
生きて行こうとしてるらしいというのが最近わかり
じゃあ私はどこかでそれを失ってしまったのだけど
子供のような自信とこわいものなさをとりもどして
カチコチの大人と違う見方でものをみてみたら
一体どうなるのだろうというのが気になって来た。

 私たちは 子供に自分が教えることができると思っている
だけど全然違う答えがどこかにあるかもしれない
それを子供はヒントとしてもっているかもしれない
世界はこうだと教えられて来たけれど
もしかしたらそう思っている限りはそう見えるけど
違ったものの見方をしたら違う解答がでるかもしれない

 今は脱皮の時期なのだろうか
人間にもっと可能性があるのなら
もっと本来の力を出して多くの人が幸せになれる
社会や生き方がありうるのなら 私はそれを探りたい。

フランスに行くなら

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