中高年からの永易流紀州釣りを極める?「いけしゅ」のクロダイな日記(仮)

合唱,Win95,Webページ,MIDI,PC自作を経て黒鯛の紀州釣りで団子団酒田支部を名乗る男の放談(訳ワカラン)

山形県の公式ホームページ「最上川ふれあい情報館」に私のMIDIが採用

2005年05月03日 | 音楽・合唱・MIDIのこと(仮)
さきほど,私の伝言板(いけ伝)のBGM(MIDI)を更新しながら,ふと「最近はMIDI制作から遠ざかっているなぁ」などと思った。
MIDIを始めて9年,MIDIのページを立ち上げて8年にもなろうとしている。
既に,hit数も140万に近づいている。
自惚れでもなく,このの数字というのは,山形県内でも個人では3傑に入るのではなかろうか。
と言っても,ひとりではなく,共同制作者がいる。
今は,やり取りも激減したが,立ち上げ当時は,毎日のようにお互いの作品に注文を出し,激論にもなり,お互い切磋琢磨して(当人たちなりに)良い作品を送り出していたように思う。
色んな人たちから,色んな批評もいただいた。

そんな中で,新しい出会いもあり,また雑誌への掲載,一流企業や学校等の公的機関での曲(BGM)利用も,枚挙に暇がないほどだった。
(MIDI関連ではないがいけしゅのホームページが外務省関連の「海外の子供向け」ホームページに採用されたりもした)

そして,ある時,今回の話題である最上川ふれあい情報館(山形県文化環境部公式ページ)へのMIDI利用の話が制作業者より持ち込まれた。

(参考)
・採用されたのは,同ページトップより「文化・歴史観」「最上川関連の歌」に最上川舟歌山形県民歌『最上川』が掲載されている。
・また,同ページトップより「インフォメーションセンター」「みどころ館」バードウォッチングの出典にある「小牧川野鳥観察館」は,たまたま我が家のすぐ裏の川沿いにある。

特に問題だったのは,既に著作権法に関する問題はクリアされているものの,山形県民歌『最上川』の作詞者は昭和天皇であるため「利用自体がどうだったかな?」と思わされた。

業者より県に確認していただき,間接的ながら「当局は,どうぞお使いください,と言っている」とのこと。
それならば,と「県といけしゅがバーター取引き」し,お互いに使用することとした。

(続く)
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ナポリ民謡「海に来たれ」のこと

2005年04月20日 | 音楽・合唱・MIDIのこと(仮)
単身赴任疲れ?からか,昨夜は早く寝てしまった。
そして,夜半,懐かしい夢を見た。そしてまた起きた(その後,今も眠られない)
その夢とは,高校時代の部活の楽しい一場面だった。

夢から覚めて,新着メールを読むと,碧水氏から「ホームページにMIDIを使用」とのこと。
こちらからお願いしたことだが,結果として氏のコラムである「新・釣への想い」という大切なページに使っていただいた。
曲は「海に来たれ」である。

私は,昭和50年前後,酒田市内の高校(イニシャルで"E")に通っていた。
中学校でブラスバンド部をやっていた私は,高校でも「スライド」して吹奏楽部への入部を希望していた。
入学式の翌日,先輩たちとの「対面式」で吹奏楽部と音楽部(コーラス)の演奏があり,音楽部による混声四部合唱の「校歌」(作曲:高木東六)は私の耳に新鮮で,アカデミックな響きに聞こえた。
演奏を聴き吹奏楽部への入部を思いとどまったが,音楽部への入部は先のことである。

その間,勉強目的での図書館通いに始まり,新旧の友人との付き合いもますます盛んになっていった。
教科では,数学と音楽には力を入れていた(というか,好きな教科には自然に力が入っていたのであり,実際に時間を最も費やしたのは地理だったが,嫌いなものはどうしようもなく,常に赤点スレスレだった(笑))

音楽でも,やはり歌は格別に好きで,最初の歌のテスト曲で,先に書いた江間章子作詞の「花の街」を歌い(一学期の中間テストに相当),次のテスト曲(期末テストに相当)は「海に来たれ」だったように思う。
イタリアの,行ったこともないナポリ地方の海の様子を想像しながら,この三拍子の曲をひたすら歌っていた。
芸術の教科は音楽,美術,書道からの選択で,いつもは別のクラスの連中とも付き合えて,そしてよこしまな事だが,あこがれの(ピアノが弾ける)女子も含まれており,伴奏してもらって歌えるということは,思春期の音楽少年にとっては誠に嬉しい時間だった。

(注)私は「結婚するならピアノが弾ける女性」と思っていました。嫁さんにも聞いたところ「子供の頃に弾いていた」とのことで結婚しましたが,彼女のピアノは一度も聴いたことがありません。きっと今後も聴くことはないでしょう(苦笑)

この曲では花の町に比べて少し上達したように思う。その後,二学期に同じイタリアの曲である「帰れソレントへ」の歌唱が評価され,遠回りだったが,スカウトされ,やっと音楽部に入部することとなるのである。

曲想自体は軽やかだと言って良いが,なにせイタリア人の体格で朗々と歌うものだから,実際のテンポは遅めに演奏されることも多い。
また,伴奏にはギターのほか,マンドリンなども採用されているようだ。
私自身のイメージ・編曲としては,軽やかに爪弾くギター伴奏で,歌も軽やかなのが好きである。

 「海に来たれ」

  夏の日は海に照り 波もまた輝く
  そよ風は波間より 若者を招くよ

  潮騒(しおざい)の彼方には 白い帆の小船が
  声あげて呼んでいる 若者よ早くと

※ 海に来よ 我が友
  輝く海に 今こそ (※以下くり返し)

(注)
> 白い帆の小船が
の部分を誤って「クロダイの魚影が~」と歌うと,すっかり釣りの歌になってしまいますので,注意してください(笑)
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「The Sound of Music」のDVDを買い(伝言板のログより)

2005年04月08日 | 音楽・合唱・MIDIのこと(仮)
「The Sound of Music」のDVDを買いました。新品で某コンビニにて980円でした(すばらしい!(笑))
かねて1980円のものを買いたかったのだけれど,他に買いたいものがありすぎ,やめていました。

オーストラリア・アルプスの山々の絶景を映しながらイントロを流し,テーマの「入り」の所で主演のジュリー・アンドリュースの所にズーム・アップしていきます(しかも回転しながら)
ジュリーの立っているのが,なだらかな丘ですが,うらやましいくらいの絶好なロケーションです。

65年の作品ですが,たぶん私は小学2年生くらい。
姉たちが既に高校生だった頃で,確か翌年には家に初の「ステレオ」なるモノが来て(もちろん「モジュラー」)最初に買ったLPがこの映画のサントラ盤でした。
その直後に,我が家にもピアノがやって来たので,音楽的に刺激されていました。

同時期の女優にオードリー・ヘップバーンがおり,彼女もウェスト・サイド・ストーリーをやっており,当初は本人が歌っていたようですが,最終的には「使えない」ため,プロの声に「吹き替え」られたようです。

演技だけの「ローマの休日」とかは,彼女の持ち味が出ていて良いと思いますが,私は圧倒的にジュリーが好きですね。
私もやはり「歌うたい」だから(笑)

(追記)あと,ココを読んだ方,若い世代の素直な感想を綴ったこちらのブログも,ご参考まで!
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阪田寛夫さんの訃報に接して

2005年03月22日 | 音楽・合唱・MIDIのこと(仮)
詩集「わたしの動物園」「おかあさん」(以上,合唱曲の歌詞にも転用),童謡「サッちゃん」「おなかのへる歌」などの作者である阪田寛夫さんが亡くなったそうだ。

歌手の故・並木路子さん,詩人の故・江間章子さんの項でも書いたし,作曲家の故・中田喜直さんの訃報を聞いた時(手記が行方不明(^^;;)にも書いたが,また昭和の時代を彩ってきた尊敬すべき先輩が逝ってしまったのは,私にとって非常に辛いことである。

阪田さんの詩は,簡潔・ほのぼのとしていて,ストレス多き青年時代の私に,ホッとする時間的な余裕を与えてくれていたように思う。

前記の作品のほか(記憶が曖昧だが)「日曜学校のころ」も同氏の作品であったように思う。
アカペラの4部合唱組曲だが,例によって子供の視点で作っているため,その歌詞には「アーメン,ソーメン,ヒヤソーメン」などという部分もあり,子供が節を作って大声で歌っているイメージがすぐに浮かぶ,作曲した大中恩(おおなか・めぐみ)も,きっとすぐにメロディが頭に浮かび,スラスラと作曲していたのでは?と推察できる。

結果としての作品は確かにわかり易く柔らかいものだし「オリジナリティ」と言えば簡単だが,誰にも簡単・シンプルに思えるものを頑として貫き通す意思というものには脱帽する。

江間さんの詩ではないが,やはり日本らしさ,そして昭和らしさのあふれる作品は,シンプルなまま,いつもでも私たちの心に残り続けるのであろう。
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続・ピアノ(というか私のピアノ)

2005年03月20日 | 音楽・合唱・MIDIのこと(仮)
ずっと↓の方に書いた,結婚してから私のピアノ,なかなか国内に現物がなく,故に既成の写真もない。
というのも,楽器店の説明ではヨーロッパへの輸出用ですので,持っている人は少ないとのこと(今も信じている(笑))

写真は類似品(^^;;ですが,これの色を薄くした感じです。

最近,あまり調律もしていないので心配でしたが,ピアノ弾きの姪と音合わせをした時に弾いてもらったのですが,まあ大丈夫な感じでした(苦笑)
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「故・並木路子さんに国民栄誉賞を」の記事を読んで

2005年03月15日 | 音楽・合唱・MIDIのこと(仮)
平成13年4月,敗戦に打ちひしがれていた国民を励ました「リンゴの唄」の歌手,並木路子さんが79歳で亡くなった。
もちろん,私の親の世代の人であり「なつメロ」でしか拝見したことはない。
しかしながら,親から聞く「日本人にとっての敗戦」「玉音放送」「戦後復興の息吹」等々から,私も戦後世代ながら,同じ日本人として,親世代から聞いた「リンゴの唄」について,非常に共感できるものがある。
一筋の光明だけでも見出したい時世に,彗星のように現れたのが,彼女だったのであろう。
ひたむきで純粋な歌声は,なにか荒んだ心の奥底に,染み入るように届いて行ったのだろう。

イマドキの,下手に小難しく,意味のない歌を聞くにつれ,素直に聞ける「よき時代の歌」は,逆に歌い継がれる存在として,確たる地位を築いていくのであろう。

平成13年4月当時の資料およびメモより
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ピアノ

2005年03月15日 | 音楽・合唱・MIDIのこと(仮)
最近,多忙すぎて音楽を聴く気分にも,する気分にもなれないでいた。
そして,やっと迎えた年末休日,たまたま起きてテレビのスイッチを入れたら,偶然に「ピアノ再生工房の一年・音色が紡ぐ家族の肖像」という番組を放送していた。
職人の帽子からカ●イ楽器の工房とわかる。

職人は,ピアノ線を磨き,ハンマーのばらつきを修正し,外装の傷を修復する。
新品のように磨かれ,音も再生されたピアノを迎えてくれる持ち主に心から喜ばれることが,職人にとっての至上の生きがいであるという。
そして,再生されたピアノの状態は完璧だともいう。

ひとりの初老の婦人は,中卒で東京に出て就職し,たまたま帰宅途中の高台の大きな家から聞こえてきた「銀波」という曲に足を止める。
そして,偶然にも,ふるさとの海を思い出したという。
聴いたこともないピアノ曲に心をひかれた彼女は,子供を持ち,ピアノ購入のため,再度仕事に出る。
2年後,念願のピアノを購入,娘にピアノを習わせる。
子供の巣立った今,彼女はリュウマチの手をいたわりながら,再生されたピアノを毎日弾いている。
さらに,夢でもあった「銀波」を1小節ずつ習い始めた。
一生かかるかもしれない,と言いながら,毎日弾いている。

音楽家を志望しつつ夢果たせなかった男は,会社を引退後,毎日のようにピアノを弾いた。
そのピアノは,死の直前に壊れてしまう。
妻と相談のうえ,ピアノを再生工房に預けたが,帰ってきたのは四十九日も近い日のことだった。
妻は,以前のように修理されたピアノを見て,夫が今でも弾いているようだという。

ひとりの主婦は,阪神大震災で壊れた思い出のピアノを工房に出した。
子供の頃,芦屋市に引越し,"お嬢さまたち"の中で友達もできず,発散できるものもない彼女に,両親が買い与えたピアノだ。
彼女は,学校から帰ると,ひたすらピアノに向っていた。
そのピアノも,彼女の高校進学,そして友達ができたことを機に,次第に忘れられていく。
大震災で彼女の家とともにピアノは壊れ,しばらく実家に預けられていたが,新築時点で家族の思い出のたくさんつまったピアノを修理することになった。
そして,ピアノは娘の練習用として再生された。

実は,小2の終わりごろ,我が家にも突然にピアノはやってきた。
カ●イ楽器製である。
私の姉(次姉というべきか)が,高校生となり保母を目指すにあたり,必須科目であるピアノを習い出したのだ。
当時,聴いた曲は全てバイエルだったのだろうが,私はたちまちピアノの虜になり,小3の頃には父にピアノを習いたいと言い出したのだ。

当時,父は男の子にピアノを習わせるのはどうかと悩んだらしく,私の担任の教師に相談している。
教師は,父が習うのと勘違いしたらしく「40を過ぎてもしたいことはやれば良い」と言ったそうだ。

私は幼稚園の頃,かの東京オリンピックでの入場行進で初めてマーチを聴き,何とも言えない感動を覚え,いずれはこんな曲を演奏してみたい,と思うようになっていた。
事実,中学生になった私は,トランペットを吹くことになるのだが,それはずっと後の話である。

話を戻すが,当時の私は,ピアノが何物かも知らず,ひたすら姉の弾くバイエルに傾倒していたように思う。
たまたま通ったピアノ教室の先生が国立音大を首席で卒業,という地元では有名な人だったため,たかがバイエルでも,随分と音楽的に教えていただいた。
特に,緊張しつつも楽しかったのは,30番台の先生との連弾である。
私のつたない音色を,先生の音楽性豊かな演奏がすっぽりと包んでくれる。
あっという間にそのあたりの曲は通りすぎてしまうのだが,機会があれば,また演奏させていただきたいと思う。

私は,今でも,音楽をすることも聴くことも,そして考えることも好きなのだが,地道に練習する,というのは大の苦手である。
ピアノについても例外ではなく,小5の頃には,ついつい練習をサボってしまう。
さらに,ひょんな理由(というか罰だったのだが)から剣道をやることになってからは,練習イコール教室行きという状況となり,私のピアノ教室通いも間もなく終わってしまう。

後年,私はコーラスを続け,特に指揮者などという大それた役割を担うことになった時,何となくピアノをやめてしまった小学生時代を大いに後悔することとなるのである。

さて,やがて私の,というか我が家のピアノと私との間にも,別れの時が来た。
姉が保育専門学校に上がり,私は好きな時に自由にピアノを触れる立場になり,彼女が卒業し幼稚園に勤務,私ともある程度対等に音楽をやるようになっていたのだが,それも長くは続かず,私の高校卒業時に彼女の結婚により嫁入り道具として我が家を去って行ったのである。
恥ずかしい話だが,私は改めて,ピアノが私の,あるいは家の所有物ではなかったことを痛切に知ることとなった。

10年余りの後,私は家族とともに仙台に転勤する。
突然の環境変化で,休日にやることも少なく,私はついに2代目のピアノに触手を伸ばす。
こだわりのある私は,やはりカ●イ楽器製を選んでしまう。
オーク材を用いた家具調で,輸出用のピアノだった。
アップライトで背も低く,格別に良い音を醸すわけではないが,オーダーメイドに近い味わいに惚れてしまい,借財をしてしまう。

大好きなユーミンを弾き語ったり,コーラスの練習に使ったりと,初めは彼女との対話も多かった。
あまりの騒音に,近所から苦情が来たこともしばしばだった。
調律も定期的にしていたし,その後の3度の引越しでも,ピアノには別個の運送業者を使うなど,破格の扱いをしてきた。
さらに,新築時には,フローリングも彼女と同じ材料でコーディネートした。

今,彼女はきっと泣いている。
私はコーラスの現役を退き,音楽と言えばDTM,というかMIDIのみ,つまり音楽を含めた趣味としてパソコンに重きを置いているからである。
さらには,会社でも職責が上がり,さらには地域活動と,彼女と"対話"する機会は激減したのである。
埃にまみれ,子供たちのおもちゃを置かれて,彼女はきっと泣いている。

平成12年1月17日の手記より
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詩人の江間章子さん亡くなる

2005年03月14日 | 音楽・合唱・MIDIのこと(仮)
敬愛する詩人の江間章子さんが91歳で亡くなった。
私に日本および日本語の美しさを教えてくれた数少ない人である。
ニュースでも,夏の思い出の作詞について紹介していたが,私は,この方を花の街という歌により知った。
随所にちりばめられたなないろの谷風のリボン等々,私の知識にない言葉と,以前に亡くなった中田喜直氏の曲が,まだ清々しかった高校一年生だった私の心に響いていた。

しかーし,である。自信のあった歌の,しかも高校で初のテストで,歌に感動しすぎたか,評価はしてもらえなかった。

日本人の心や言葉が汚れて久しい。
自戒をこめて綺麗な日本語を取り返すべき時期にあると思う。
これにしても,前述の中田喜直氏を含め,また大切な昭和の人が逝ってしまった
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