申し訳ないという感情に飲まれて
前を向けない日が続いています。
哲学を勉強している身として
また感情に飲まれるのはちょっと情けないじゃないかと
申し訳ないという思いの本質ってなんだろうと考えてみた。
自分を犠牲になにかをしてもらうとき
身に余るものをいただくとき
時間を割いてしてもらったのに役に立たなかった時
準備してくれたのに気付かなかったとき
誰かの努力を無駄にしてしまったとき
ここに上がる事柄の本質は
取り戻せない他者の労力の損失に対する畏まり、と結論づけたけれど
でもねえ、なんか足りない。
そんなに純粋でもないんだ。
もっと不安に塗れていて、
この不安ってなんだ。
何が不安なんだ、と問うた時
私と言う人間が、人の労力をたやすく損失させてしまう人間だと、そんな酷いやつだと思われたくない、というところに辿り着いてしまいました。なんてこった。なんて自分勝手な。結局は自我にたどり着いてしまったよ。
申し訳ない、は、私への赦しの乞いだったのか…
これは仕方がなかったんだ。
当たり前だなんて思ってないよ、私は。私は本当はそんなに図々しくないんだ。
本当の私はこんなんじゃないんだ。
平野啓一郎さんの「最後の変身」を読んでいてどきっとしたあの感覚が蘇る。
そうか。
私個人の申し訳なさの本質は畏まりだけじゃなくて、私という人間の価値への承認なんだと。
ここまで気づいてなんとまあ恥ずかしいことやら。
こんなにみんなに思いをもらっておきながら、私は自己愛で苦しんでたのか。恥ずかしい恥ずかしい!とにかく恥ずかしさでたまらなくなりました。
こんなくだらない申し訳なさに飲まれず、ありがとうを1万回くらい言う方がマシだと思う。
最近読んだのに、すぐ忘れる。
戒めと自己理解のために。
人間が生きている間、決して消え失せることのない唯一の情欲は自愛である。ルソー