昨日の読売新聞のサイエンス欄に、こんな記事がありました。
『電子や陽子は、「波」と「粒子」の両方の性質を備えている。ところが人間が観測してその粒子の位置が決まると、波としての性質は失われる。この奇妙な事実を証明する理論の一つが、無数の世界が同時に存在しているとする「多世界解釈」だ。我々自身も実は多数の世界にまたがる「波」だが、誰かに観測された瞬間に、「一つの世界の一人の人間に」になるという。』
何のこっちゃ~、さっぱりわからん…。
それで私なりにいろいろと妄想してみたのですが、私たちはラジオみたいなものなのかなって…。
私たちの周りには多くの電波という「波」があるらしいのですが、ラジオで特定の周波数を観測した瞬間にその波は特定の誰かの声や音楽として認識されるのと同じようなことなのかなと…。
観測者がいて認識されることによってのみ、なにかは「ある」ということになるのでしょうか。
だから自分と周波数が近い人や物を好きになるのかな(蛇足ですが)。
その記事の横には多世界解釈に関する3冊の本が紹介されているので、それを読めばわかるらしいです。
でも、たとえどんなに物理学や宇宙論で説明されたとしても、私には自分の馬鹿げた妄想のほうが腑に落ちるというか感覚に合うような気がするので、私的にはこの解釈でよしとすることにします。
『電子や陽子は、「波」と「粒子」の両方の性質を備えている。ところが人間が観測してその粒子の位置が決まると、波としての性質は失われる。この奇妙な事実を証明する理論の一つが、無数の世界が同時に存在しているとする「多世界解釈」だ。我々自身も実は多数の世界にまたがる「波」だが、誰かに観測された瞬間に、「一つの世界の一人の人間に」になるという。』
何のこっちゃ~、さっぱりわからん…。
それで私なりにいろいろと妄想してみたのですが、私たちはラジオみたいなものなのかなって…。
私たちの周りには多くの電波という「波」があるらしいのですが、ラジオで特定の周波数を観測した瞬間にその波は特定の誰かの声や音楽として認識されるのと同じようなことなのかなと…。
観測者がいて認識されることによってのみ、なにかは「ある」ということになるのでしょうか。
だから自分と周波数が近い人や物を好きになるのかな(蛇足ですが)。
その記事の横には多世界解釈に関する3冊の本が紹介されているので、それを読めばわかるらしいです。
でも、たとえどんなに物理学や宇宙論で説明されたとしても、私には自分の馬鹿げた妄想のほうが腑に落ちるというか感覚に合うような気がするので、私的にはこの解釈でよしとすることにします。
たしかに波があっても、リスナーというキャッチャーがいて初めて認識される。
なるほどなあと、思いました。
とても、物理学的な発想だと思います。
私は、違う連想していました。
人に例えるとするならば、集団が波、そして粒子は個人。
集団となると色々な流行や圧力となりうるが、個人にフォーカスすると集団は関係なくなる・・・というイメージでとらえました。
そして、その個人は、家庭・会社・町内会などの無数の世界に属しているけれど、個人個人のカラーは個別にある。
面白いテーマですね。
なるほど、ぶくろさんの例えなら、私たち個人が見方によって多数の世界にまたがって存在しているといえますね!
(私の妄想には、そのことが欠けていました。)
私の妄想は物理学の知識がある方に読まれたら怒られそうですが、日常生活の中で時々こんなふうに抽象的なことを考えたりすると、この世界の見え方が変わって気が楽になったりもします。