市川稔の米(マイ)情報

私の米流通の歴史③

1975年(昭和50年)のことだった

人口急増地帯でも米屋の数が増えないと書きました

当時は食管法があり、小売店の販売区域は隣接市町村となっていた(形骸化していたが)

他県への販売ももちろんできないことに

米穀通帳は形骸化し、1億総食管法違反

当時の会社は神奈川県海老名市にありました

これもなにかのご縁かと思いますが、現在の弊社がある東京都町田市へ販売に

その手法は、団地の自治会の承諾を得て団地内の広場で青空販売をするというもの

開催日は日曜日の午前中
米屋は営業してない

当時の「団地」は地方から東京や神奈川に出てきて就職し結婚、所帯持って最初に住むのが団地というわけです

地方から高卒、中卒、大卒で都会に出てきて

最初は「寮」、次は「〇〇荘」などのアパート、結婚し子どもが出来れば「団地」というコース

順調に行けば郊外に一軒家というマイホーム

そんな時代でした

話しを戻すと、

日曜日の朝早くトラックに10㎏入りの米を満載して団地に向かう

2トントラックに4トンくらい積んで

10㎏袋なら400袋

これを午前中に売り切る

当時は若い夫婦と子供がたくさん

お米も20㎏、30㎏まとめて買う人多かった

はっぴと前掛け姿

千円札が山ほど

時代背景としてコメ余りの中、昭和49年のオイルショックもあり物価高騰

小売米価格も調べてみると(10㎏)

昭和48年2,310円、49年3,100円、50年3,580円、51年4,010円、52年4,370円

仮に10㎏3,500円で販売し400袋なら140万円の売上

デフレに慣れ切った今では信じられないでしょうが、物価はどんどん上昇していた

給料も増えていた

46年も前の米価格と現在があまり変わらない

その後もっと米価格上昇した

余談ながら、

日本は富の再配分を米代で行ったと小生はみている

都市部から田舎へのお金の移動という意味で


当時、食管法違反ながら商売がおもしろくておもしろくて


ある日曜日、団地での即売終えて昼時になったので食事して帰ろうということに

町田の団地から国道16号に出て神奈川県相模原市

相模大野に出来たばかりのレストランに寄った

店の名前はひらがなで「すかいらーく」と書いてあった



続く



ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事