長男が買ってきた本を読みました。
1865年ということは慶応元年。
元治2年。
小生の曽祖父は元治元年生まれだからそんな昔ではありません(笑)
米家きゅうさん、おむすびきゅうさんの店名は曽祖父の名前が由来です。
元治元年生まれ「市川九次郎」の「九」が「きゅうさん」です。
1868年は明治元年。
その前年の1867年(慶応3年)に徳川慶喜、朝廷に大政奉還(家康以来270年の歴史に幕)。
この年の11月15日坂本龍馬暗殺されました。
まさに激動の幕末に世界を旅していたハインリッヒ・シュリーマン。
各国、各地を見て回ったシュリーマンは克明に記録を残していました。
清国と日本の記録を訳して出版したのがこの本です。
シュリーマン旅行記 清国・日本 Amazon
講談社学術文庫
いやぁ、実におもしろい。
清国の上海や北京の様子も。
万里の長城の素晴らししさ。
その偉大さが当時の清国の人はまったく理解していないこと。
上海の不潔さ。
他国のことはあまり触れたくありませんが当時の日本とは雲伝の差でありました。
横浜、江戸、絹のロードで八王子を目指し、原町田に寄ったことも。
日本人の綺麗好きには驚嘆している。
江戸や横浜のことですが、
毎日洗髪していることや髪結いの料金も。
銭湯があり、風呂に毎日入っている。
それだけ清潔好きなのにほとんどの人が皮膚病にかかっていると指摘。
シュリーマンの予測では日本人が大好きな生魚を食べることが原因ではないかとも書いている。
質素な生活にも驚いている。
家具というものがほとんどない。
ソファ、ベッドも食堂の椅子やテーブルもない。
ナイフもフォークもない。
漆塗りの椀と箸。
日本のコメの品質はすごく良い。
この国の人はパンの存在を知らない。
ご飯が炊けるとお櫃に移し部屋の中央に置く。
ピリッとしたソース(醤油のことだろう)で煮た魚と日本人の好きな生魚の椀が入ったもうひとつの椀がつく。
椀には富士かコウノトリ(鶴のことらしい)の絵が描かれている。
家族全員が、そのまわりに正座する。
めいめい椀を手に取り、箸を使って、われわれの銀のフォークやナイフ、スプーンではとても真似ができないほどすばやく、しかも優雅に食べる。
食事が終わると主婦が椀と箸を片付け、洗って、引き戸の後ろの棚に戻す。
このようにして食事の名残りはまたたく間に消えてしまう。
それというのも、元に戻すべき椅子も、取り除くべきテーブル・クロスも、移動すべきテーブルも、たたむべきナプキンも、洗うべきコップもナイフもスプーンも、小皿も大皿も、ソース入れもコーヒー茶碗もポットも、どれひとつとして日本には存在しないという単純な理由による。
夜9時頃には皆眠ってしまう。
家族が一日過ごしたそのゴザ(畳のこと)は同時にベッド、マットレス、シーツの用を務めるのである。
そこに枕を加えればいいだけだ。
質素な生活とその合理性に驚いている。
浴場に通う庶民が男女混浴であると驚きを通り越して書いている。
興味深い内容↓
遊郭のことも克明に調べて書いている。
江戸には遊郭がたくさんあった。
一番大きいのは吉原。
吉原は周囲2マイルほどの平行四角形。
吉原には遊女が10万人くらいいる。
外に出るには通行証がいる。
通行証を手に入れるには相当なお金を用意しなければならない。
出入り口には警備員がいて厳重に管理されている。
遊里の営業権は各町ごとにセリで一番高い値をつけたものが、数年間にわたり独占権とともに政府から払い下げられる。
遊里の収入は莫大であり、国家のもっとも大きな財源の一つになっている。
売春に対する考え方が日本人は独特。
日本では、社会的身分として必ずしも恥辱とか不名誉とかを伴うものではなく、他の職業と比べてなんら見劣りすることのない、まっとうな生活手段とみなされている。
引用終わり↑
<小生が何を言いたいか。明治新政府になり日清、日露戦争があり、大東亜戦争に突入する。従軍慰安婦のことを今ごろああだこうだと言っているが、当時は売春というもは法律で認めていた。従軍慰安婦という表現が間違っている。民間が経営する移動売春宿。若い男しかいない軍隊は最高のお客さんだった。売春婦は莫大な収入を得ていたのです。従軍ではありません。>
当時として深い知識、見識、世界各国を見ている目、数学の知識。
並外れた語学力。
こうした外国人から見た日本。
他のどの国にはない国民性。
わたしたちの民度、文化は長い歴史の中で育まれたもの。
大事にしていきたい。
お勧めの一冊です。
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堀江信吾
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