市川稔の米(マイ)情報

立地は変わる

大黒柱に車輪を付けよ

とはイオンの前身、岡田屋の家訓でありました。

立地や環境は変化するので、店そのものが動けということのようです。

現在、小生がビジネスの拠点にしているのは東京・町田市です。
地図でみるとわかる通り、神奈川県の中に町田市が食い込んでいるような地形です。明治の初めは神奈川県に編入されたが後から東京になったようです。

町田は絹貿易の拠点でシルクロードでありました。

原町田といって商業が栄えた街でした。

今でもJR横浜線、小田急線が交わる町田駅周辺は大変な賑わいがあります。

なんとデパートは3つもありました。専門店ビルもたくさんあり、商店街も活気があります。

バブル後、デパートがひとつ閉店しました。

残ったのは駅のホームの上に建つ小田急百貨店町田店と東急百貨店町田店です。
その東急が07年7月末で食料品売り場のみ残して専門店ビルに変わります。

6月7日から閉店セール始まりました。
デパートの閉店セールは一番の賑わいがあるという皮肉なことになります。

立地というものは変化してゆくのです。

郊外のロードサイドに駐車場を構えた専門店がたくさんできました。

超大型のショッピングセンターも数千台の駐車場を完備し郊外にできました。

駅前立地はどこも大変です。

町田はまだまだ良いほうでしょう。

地方都市でデパートや総合スーパーが閉店すると街の火が消えたようになります。

立地の優位性で商いをしていると立地の変化で劇的に環境が変わってしまいます。

立地とは変わり続けているものだという認識を持ちたい。

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コメント一覧

市川 稔
立地・街の盛衰
山縣さん

地方都市の盛衰は激しいものがありますね。

駅前商店街、中心市街地が中心ではなくなってしまったところも多い。

企業城下町の場合はその企業の盛衰によって街が変化してしまいます。

斜めから、上から、横から「街」を眺める必要がありますね。
山縣 敏史
産業によっては
私のところから山のほうに行ったところは、すこし前まで
廃墟のようなアパートが並んでました。
昭和初期の頃までは2~3万人住んでいたとのこと。
鉱山が閉山された今では数えるほどの家しかありません。

極端な例かもしれませんが、でも街は移ろいで行くものと思います。
今の繁華街は昔からそうだったんでしょうか?
大黒柱に車輪は付けられませんが、いつまでも同じではないということは心がけていなくてはいけませんね。
杉村 敏夫
あゝ シルクロード
http://www.subaru25.com
シルクロードで思い出しました。シルクは貿易品で外貨獲得をして、日本の近代国家形成に大きく貢献しました。横浜港を「金港」とも言いますし、輸出先のアメリカのサンフランシスコは「桑港」と書きます。

また全国の蚕糸会館は一等地にあります。東京も有楽町の一等地にその面影を残しています。横浜のシルクセンターはいまでもシンボルでしょう。豊田佐吉だって紡織機づくりから事業を起こしました。時には歴史を振り返ることも必要ですね。ありがとうございました。
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