約束の谿 その三
煙草の火を消し吸殻を携帯の吸殻入れに入れる 先程まで吹いていた風は止み聞こえる音は水の流れる音だけ
「出た!」「えっ?」「先輩、奴がネグラから出てきましたよ」
私は少し腰を上げ淵の中に沈んでいる倒木の辺りを覗き込んだ
確かに水の流れの中にうごめく生き物が確認できる 大きさは尺三寸程か、間違いなく大岩魚だった
派手なライズは無いがス~ッと浮上しては何かを捕食しているようだ
Kはロッドを手にすると淵の方へ歩き出した 淵の手前にある1.5メートルほどの大岩を背にし少し中腰になりロッドを振り始めた
ほう、これは”石化け”(石に化けて気配を絶つという秘技)と言うやつだな 透明度の高い流れでは岩魚に釣り人の存在を知られないように細心の注意が必要だ、それも大岩魚ならなおさらだ
Kの振り出すラインは美しいループを描いている 私は短期間でのKの上達振りに驚いていた あのおおざっぱな性格のKの変わり様 それだけKにとってあやの存在は大きかったのだろう
私はそんなあやという女性に生前に会ってみたかったなと思った
Kは数回ロッドを振ると岩魚の1メートル程前にフライを流れに乗せた そして上手く流れに乗り岩魚の定着している方へ流れていった
フライが岩魚の横を流れ過ぎようとした瞬間に岩魚は少し横に揺れ動いたように見えたが岩魚はフライを追う事は無かった
そして2度目、岩魚の動きは先程より大きかったが同じ結果に終わる
私はKに近付きフライをニンフに変えたらどうかと提案してみた するとKは「このフライはあやが巻いたものなんです どうしてもこれで釣りたいのでこれで駄目なら諦めます」
「そうか、そういうことなら仕方が無い しかしチャンスはあとワンキャストだけだと思う 慎重にな」と私が言うとKは「OK牧場!」と笑って頷いた 返す言葉は前のまま変わってはいなかった
Kはフライの水気を取ると再度浮力材を染み込ませそしてキャストする
しかしフライは岩魚の定着位置のすぐ真上に落ちてしまった 失敗だ! そう思った瞬間岩魚は反転し流れに乗りながらフライ目掛けて浮上した
そして岩魚釣ではあまり見る事が出来ないような豪快なライズとともにフライを捕食した
きっと二度のキャストで岩魚は食い気が出て、更に三度目岩魚の真上にいきなり落とした事で岩魚にフライを見切られるのを防いだのだろう
昔、岩魚職漁師はテンカラで毛鉤を流すのは五十cmほどだったと言う
「掛かった!」と水の流れる音を掻き消すほどのKの叫び声が谿の中に響き渡る
「よし!やったな 絶対釣り上げろよ」と言い私はKに駆け寄ると背中に吊るしてあったネットを手にした
Kのロッドは折れんばかりにグニャリと曲がっている 岩魚は倒木の方へと逃げ込もうとラインを引く
「K耐えろ 倒木の方へは絶対に行かせるな!」と私が叫ぶとKはまた「OK牧場!」と言った
Kのロッドの捌き方は見事なものだった 最初は大暴れしていた大岩魚はしだいに弱まりそしてついに私の差し出すネットに収まったのである
「デカイ!」 最初はあっても尺三寸かなと思っていたが実際は四十をゆうに超えていそうだ あやの言う通り岩魚は優しい顔をしておりまさに雌の岩魚に違いなかった
Kは写真を三枚ほど撮り終えるとすぐにもといた淵へと岩魚を放す 岩魚はゆっくりと倒木の方へと泳いでいった
「やったな」と声をかけるとKは「はい」と岩魚を見送りながら答えた。岩魚が姿を消した後も何を想っているのだろう、Kは淵を見つめたままその場を離れようとはしなかった
その後Kは一週間の休暇をとった あやとの最後の約束を果たす為だ
数日後のKからのメールには幅広の虹鱒やルビーの宝石を鏤めた美しいオショロコマなどが添付されていた
メールの最後に書かれていたのは
『僕とあやの釣り旅はもう終わろうとしています そして僕の渓流釣りもこれで終わりです。先輩との初釣りでの岩魚は今でも心に残る思い出です そしてあやとの出会い・・・』
『明日の最終日は天塩川です 運良くイトウに出会えれば嬉しいのですが』
Kはこの旅で本当に釣りを止めてしまうのだろうか まぁ本人が決意した事なので私がどうのこうの言う事ではないがFFがあれ程上達したのに残念ならない。
それから十数年の時が経ちKは現在釣りを止めているのか・・・ 答えはNOだ
Kは私にメールをくれたその夜に夢を見たと言う
その夜はとても星がきれいでKは晩くまで焚き火に当たり星を眺めていたがやはりここ数日の疲れかそのうち寝入ってしまった
そして夢の中にあやが現れこう言った
「Kくん、約束ありがとう 私、ずうっとKくんの釣り見ていたよ 前よりも上手くなって私も嬉しいな。でも残念・・・Kくんが釣りを止めちゃうなんて 私はそんなの嬉しくはないよ
だって私、Kくんの釣りをしている姿見ているのが好きだったから だからお願い止めないで・・・」
目が覚めると焚き火は既に燃え尽き消えていた
手のひらの中にはあやの巻いたフライが握られていた・・・
完
こんな結末で勘弁です