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鍛冶俊樹の軍事ジャーナル (2024年9月13日号) *台湾と朝鮮半島の地政学7

2024-09-14 10:31:39 | 日記
鍛冶俊樹の軍事ジャーナル
(2024年9月13日号)
*台湾と朝鮮半島の地政学7
 スペインがフィリピンを植民地として支配し始めたのは1571年。この年にルソン島のマニラを軍事占領し、そこに総督府を置きマニラ市を建設してフィリピン支配の基地とした。こうしてフィリピンをスペインのアジア進出の拠点にしたのである。
 だがライバルのポルトガルは、これに先立つこと5年、1566年に既にフィリピンの対岸、中国南部にマカオ市を建設し東アジア進出の拠点としていた。
 マカオ市は、当時の中国政府すなわち明朝から、許可を得て建設された都市で、マニラ市のように軍事占領されたわけではないが、ポルトガルは軍事拠点として建設した。では明朝は、なぜマカオ市の建設を許可したのであろうか?

 明朝は建国以来、海禁政策すなわち海洋貿易禁止政策を採っていた。しかし沿岸の住民に海洋貿易を禁ずるのは土台無理な話で、必然的に密貿易が常態化するわけである。
 ここで活躍したのが倭寇である。もともとは元寇の報復として朝鮮半島や中国沿岸に侵攻していた日本の武士たちで本気で元朝の打倒を目的としていた。元朝が滅び、代わりに興った明朝が海洋貿易を禁止すると、海禁破りの海洋勢力に変貌したのである。
 中国沿岸の住民も海洋貿易を望んでいるわけだから、相互利益の原則にかなっている筈だが、密貿易であるから中国側の業者も非合法集団つまりマフィアであり、違法取引はしばしば武力闘争へと発展した。

 16世紀になると倭寇とは言いながら、実態は中国人ばかりであった。つまり明朝の海禁政策に反抗する海上マフィアになったと言えよう。ただし日本人が海洋進出をやめたわけではない。この時期、東南アジアの随所に日本人町があった事から明らかなように、中国南部沿岸から東南アジアに進出先を変えていたのである。
 倭寇に悩まされた明朝はマラッカに拠点を持つポルトガルの海軍に倭寇退治を依頼した。そしてマカオにポルトガルの拠点を置くことを了承したのである。
(続く)


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