オーストリアから日本に届いたものはたくさんありますが、ウィーン音楽、特に歌曲の中では、この「ウィーン我が夢の街(Wien,du Stadt meiner Träume)」が、おそらく一番有名でしょう。
今回のツアーでも、おそらくすべてのイベントプログラムで歌われることと思います。また、ご来場の皆様と一緒に口ずさむことができれば、さらに楽しいのではと今から楽しみにしています。
今日はこの「ウィーン我が夢の街」と、この曲を作詩・作曲したジーツィンスキーについて、少しだけ紹介したいと思います。
ルドルフ・ジーツィンスキー(Rudolf Sieczyński)(1879年2月23日~1952年5月5日)は、この1曲で世界中に名前を知られることになりましたが、最初から作曲家だったわけではなく、いわゆる今で言う公務員でした。
仕事の傍ら、作曲や文筆活動を行っていたのですが、『ある日の夕暮れ、カーレンベルクで一杯やった後(2~3杯と本人は書いていますが)、ワイン畑を降りる道すがら、ウィーンの街が夕暮れに美しく輝くのを見た時、あの有名なメロディー「Wien, Wien, nur du allen (ウィーン、ウィーン、お前は私の夢の街)」にあたる部分が浮かんだ』と自身の著書の中で言っています。
また彼は、同じ本の中で、『この曲は最初から大ヒットというわけにはいかず、いくつかのホイリゲで歌ってもらったりしたものの、鳴かず飛ばずの状態でした。』
『しかし第一次世界大戦が、この曲の運命を変えました。』
戦地にいる兵士たちが、この曲を聞いていたのです。それは、遠い戦地に赴いた兵士にとって、故郷を懐かしく思う歌になりました。彼はあらゆるところの見知らぬ兵士から、軍事郵便でたくさんの便りを受け取った』と書いています。この歌は、いつの間にか、英語、イタリア語、フランス語、そして日本語にまで広がりを見せました。今ではさらに多くの言語の歌詞がついています。
彼は生存中に多くの曲を作曲し、またオーストリア作曲家協会の会長職にまでつきましたが、残念ながら現在の所、この曲以外は日本だけではなく、オーストリアにおいてもほとんど演奏されることがありません。しかし、ウィーン音楽、そしてウィーン歌曲において、大きな影響を与えた一人と言えるでしょう。
自身の著書に、次のようなことを書いています。
『もし誰かウィーン歌曲に興味があり、作ってみたいと思うなら、次のような、私オリジナルのカクテルレシピを参考にしてください』
レシピの中からいくつかの材料を紹介しましょう。
『まず最初に4分の1リットルのホイリゲワインを飲みましょう。酸っぱすぎず、甘すぎないものを』
『ユーモアと心地よさは忘れずに。今の時代には必要なものです』
『大切なことを忘れずに。神様と善良な心を。そして、可愛い娘と、プラター、ヨハンシュトラウスを、そしてニオイスミレを』
『少しの哀愁を、苦しみの代わりに入れてください』
『静かに待てばウィーン歌曲の味がしてくるでしょう』
このような材料で、「ウィーン我が夢の街」は作られたのですね。
また彼は、著書「ウィーン歌曲・ウィーンのワイン・ウィーンの言葉(Wienerlieder Wiener Wein Wiener Sprache)」の中で、『ウィーン音楽とワインは切っても切り離せないもの』だと書いています。
今回、日本各地のレストランでは、どのようなワインを楽しみながら、音楽を聴いていただこうかと、今からいろいろなアイデアを考えていただいています。これはまさしくジーツィンスキーが言っている「一番よいウィーン音楽の楽しみ方」なのではないかと思います。