こんにちは。中川香須美です。今回は、カンボジアの教育制度について、どのような変遷をたどってきたのかについて歴史的な背景を紹介します。歴史的に見ると、カンボジアで行われていた教育は、仏教の伝統に従い、男子のみが対象となっていました。つまり、お寺で仏教典を通じて読み書きを学ぶ教育が中心でした。他方、「女子が文字を学べばラブレターを書くようになる(伝統的な“良いクメール人女性”に反する)」という理由から、女子には教育の機会が与えられないのが一般的でした。
政府が子どもたちに平等に教育の機会を提供しようとしたのは、フランス植民地時代の1917年です。フランスの教育制度に類似した小・中学校という9年間の教育制度が、初めてカンボジアに導入されました。とはいっても、第二次世界大戦期にはカンボジアは日本軍に占領され、日本が敗戦した後にはフランスからの独立のための闘いなど国内の政情が不安定だったことによって、1950年代後半までは教育制度が脆弱なままだったようです。
1960年代、シアヌーク元国王が政権を執っていた時代には、都市のエリートたちの子どもたちが男女を問わずレベルの高い教育を受ける機会があったそうです。カンボジアでは現在学校は全てが共学となっていますが、当時は女子のみが通う小・中学校があり、女子に対しても自立の精神を育てる教育がなされていたのです。わたしの友人エラは、内戦後にカナダに移住した女性ですが、60年代に女学校に通っていました。当時の先生はとても厳しく、算数の計算の回答を出すのが少しでも遅れると細い棒で背中をぴしゃっとたたかれたそうです。規律も厳守するよう教員が指導していたそうで、遅刻はご法度だったそうです。カンボジアでの教員生活がすでに5年になろうとしている個人的な経験からいうと、学生が遅刻してくることを指摘すれば逆に教員が厳しいと批判の的になって大変なので私は遅刻者にも寛容です(90分授業で60分以上遅刻して平気で教室に入ってくる生徒も珍しくないです)。当時、先生が教室に入る前には必ず机の前に座って教科書を開くよう指導され、教員の指導には絶対服従だったそうです。そのような60年代当時の話を聞いたのは、2006年1月にわたしがカナダに遊びに行った時、ちょうどカンボジアの女性の権利の状況についての本をまとめていたので、彼女がどんな教育を受けたかを聞いた時です。今は3人の子どもを一人で育てているエラは、内戦以前に大臣を務めた方の娘で、別荘が何軒もあり使用人に囲まれて育った女性です。シアヌーク元国王の時代に通った学校は、規律がとっても厳しかったけれど、とても楽しかったと目を輝かせて話してくれました。
1975年から1979年までのクメール・ルージュ(ポル・ポト)政権下では、教員を含め知識人がほぼ全員虐殺され、教育制度も一切廃止されました。農民による革命を目指す政府の方針によって、子どもたちは革命のスローガンを学ぶ以外の教育を受ける機会を剥奪されたのです。子どもたちは、親や保護者と一緒に生活することを許されず、少年・少女が集団で生活するキャンプで生活しなければなりませんでした。多くの子どもが少年兵となる以外の選択肢を与えられず、小さい体で銃を背負い、強制労働に従事する大人たちを監視する役割が子どもたちに与えられました。政府に反感を持つ大人の行動や発言を監視し、自分の親の行為をスパイするように訓練された子どもも少なくありません。わたしの親友リー・ビチュターも、当時10歳程度だったそうですが、真夜中に兵士に起こされて外に監視に出ることを命じられたり、丸一日寝ないで強制労働させられたり、とてもつらい思いをしたそうです。
1979年にクメール・ルージュ政権が崩壊した後、1989年までは社会主義政権による支配が続きました。この社会主義の時代、政府はそれまでに徹底的に破壊された社会制度を再生するだけでなく、ジャングルから攻撃をかけてくるクメール・ルージュとの内戦が継続していました。したがって、政府予算の中では国防費に巨額の予算が割かれ、教育制度改革についてはほとんど対策がとられませんでした。当時、住民台帳などはまだ正確に整備されておらず、いったい村に何人の子どもがいるかについて正確に行政が把握していませんでした。したがって、6歳の子どもに就学の案内が届かなければ、保護者が自分たちの生活に手一杯で子どもを学校に送るという発想にすらならなかった場合も少なくありません。私の友人も、クメール・ルージュ時代に父親が殺害され、母親が一人で子どもを育てなければならなくなったので、小学校に入学したのは自分がすでに10歳になっていた1980年代後半だったそうです。
1993年にカンボジアで初めての総選挙が実施され、民主的な政権が発足しました。政府は教育制度改革にも熱心に取り組み、学校に通う子どもたちの数が飛躍的に増加しました。
(つづく)
写真は学校を拠点とした人身売買予防ネットワークのトレーニングに参加する子どもたち。撮影:甲斐田万智子