夜9時過ぎ、最寄りのスーパーマーケットへ買い物に出かけました。団地内の隣の棟へさしかかったとき、その棟の中庭から男の子の影が飛び出してきたかと思うと、後ろの方を向いてじっと立ち尽くしていました。年は、4、5歳位。小さいからだがとてもかわいらしく見えました。こんな遅い時間に何をしているのかと訝しく思いながら近づいてゆくと、男の子が見ていた方向に母親らしき女性が立っていました。「もっと・・・」などと男の子に話しかける彼女の両手に、今どき珍しい、大きめの竹トンボが挟まれていて、それが回転しているのが見えました。母親は両手をこすり合わせながら男の子に小声で何かを教え諭すように話しかけつつ、両手を前に突き出すと竹トンボを飛ばそうとしました。やにわにわたしの胸の内になつかしさがこみあげてき、歩をゆるめそうになりましたが、母親はくるりと向こうむきになって竹トンボを放ったようでした。暗闇のこととてその様は見えませんでしたが、竹トンボは旨く飛んだようでした。そこを通り過ぎたわたしの背後で、男の子が待ちかねたように駆けだす足音が聞こえたからです。
わたしも、その男の子と同じくらいの歳の頃に、母と同じような遊びをした記憶があるように思いました。しかし、その遊びが、何であったかをすぐには思い出せませんでした。少なくとも竹トンボを母と一緒に飛ばした記憶はありません。おぼろな記憶の彼方に目を凝らしていると、ある光景が矢のように飛んできました。畳の上に、母親の両手の指で、その中心を抑えられた風車の羽。そして、「早く早く」とわたしを急かす、顔の見えない母の発する声。母は、風車に挿す心棒を持ってくるように指示していたのです。わたしは、弾かれたように立ち上がって駆けだしました。そのとき、確か、心棒になるような物をどこに探しにいったらよいのか、外の竹やぶか、それとも既にうちの中にあったのか、と一瞬迷ったことも思い出しました。その後のことはもう丸っきり思い出せません。よみがえった記憶は、ほんの僅かな時間の、ごく些細なものでしかありません。しかし、実に鮮やかな、なつかしい記憶としてわたしの中に残っていました。
竹トンボの男の子も、70年後、もしかすると、この梅雨の夜のことを、一瞬のなつかしく鮮やかな光景として思い出すことになるのかも知れません。