(原句)少年や六十年後の春の如し 永田耕衣 (72、3歳頃)
きょうの午後2時半ごろ、6、7歳位の男の子がムクノキ?の周りをうろついていました。クマゼミに代わってアブラゼミの鳴き声が辺りに響いていました。この夏は近年になくアブラゼミが多いようです。男の子は上の方を見上げてはしきりに網を伸ばしていました。夏の日の暑い盛りに、暑さをものともせず、セミ捕りに熱中しているようでした。網を精いっぱい伸ばしても獲物には届かないのでしょう、ついには、網を放り上げたりしていました。結局、セミは1っ匹も取れないまま、木の幹の向こう側へ行ってしまい、姿が見えなくなりました。
セミ捕りだけが生きることだった夏の記憶が強く残っているにもかかわらず、男の子の姿にわが身を重ねて見ることができませんでした。70年の歳月を経る間に昔のわたしと現在のわたしとが果たして同一性があるのか判然としていないことに気づきました。
この気づきの意外性に戸惑いを覚えたことを契機として、耕衣の上掲句の意味はよくわからないものの、表題の模倣句ができました。「少年」を「蝉捕り」に替えてもよさそうです。いずれにしても、作った本人にも句意はあいまいです。
アブラゼミのほかに今は懐かしいニーニーゼミもいるのではないかと思い、それを確かめるべく、カメラ片手に表に出たところ、あいにくのにわか雨。遅きに失しました。相変わらず、いつも一歩も二歩も遅い、老人の構図を描いた午後でした。