台湾治郎

自分の生涯・現在の生活

ブログ11「私がなぜ教師になったか?。」その①

2012-09-15 05:21:19 | 台湾
、最近まで国際学舎にいた、「ななお」君が私に手紙で質問してきました。治郎さんは、なぜ先生になったのですかと。
「ななお」君は、私が初めて来て、初めて知り合った友達です。31歳。
「ななお」くんも、苦労人。その質問をブログで返信します。その為に、何回かにまたがることをご了承ください。
私の生い立ち 
私は、東京葛飾に生まれ、育ちました。六人兄弟の末ッ子として、とても、とても、貧乏な家に育ちました。その当時、昭和30年代は、日本全体が貧乏だった。「三丁目のオールウェーズ」やビートたけしの本等でわかる通り、葛飾とか足立、
墨田・荒川等々いわゆる下町は、東京の中でも特に貧しかった。1番貧乏な時、我が家は、
三畳一間で6人の子供と親が寝ていました。『嘘』寝られるわけねえーだろう。それが寝られるんだよ。押し入れに2人、後は、足と頭を反対に雑魚寝状態。もちろん、風呂もトイレもない。だから、ここで、ものごころ着いた頃、毎日造花張りの内職をさせられていました。私は、まだ、小学校一年生だったので、500本、兄や姉は、1000本。1日1時間内緒しないと、遊びに行けなかった。1日50円稼がないと自由が無かった。私は、遊びに行きたかったので、必死に内職したのを今でも覚えています。当時子供は、金を儲けるためなら、瓶を拾ったり、鉄・銅線等々何でも拾った。当時の遊びは、ビー玉、メンコ、ベーゴマ等々ほとんど、子供同士のギャンブルでした。私は、ベーゴマ等うまくないので、くりかえし、くり返しビー玉を練習しビー玉では、余り負けませんでした。
 当時、子供の世界は、いわゆる「ぶつぶつこうかん」。もちろん、お金でもOK。強いものが勝つ。そんな「やくざ映画」のような社会。だから、いじめもあった。けど、正義のガキ大将がいて、必ず、いじめは、止めさせていました。
ビー玉5個に対して、ベーゴマ1個。メンコとビー玉は、同等とか。何か特技がないと、活きづらい世界。だから、みんな必死に自分の得意技を持つように、毎日練習していました。遊ぶ世界は、現在の大人社会に似てました。金をたくさん持っている奴は、生き残れるが・・・・。私のような貧乏人は・・・。技で勝負。
また、話が変わりますが当時『紙芝居屋』が来て、子供達から、五円、十円の駄菓子を買わせ、『紙芝居』を見せてくれました。ほとんどの紙芝居屋は、「金のない子は、あっち行け」とほとんど、・・・。けど、時々紙芝居屋の中にも、『いい人』がいて、「僕今度お金持ってこいよ。」といいながら、見せてくれる人がいました。この違いは、「何?。」
よーく見ると、『顔』見せてくれる人は、幸せそうな『顔』。くれない人は、・・・・。
子供の頃から、人の顔色を見て生活するようになりました。
こんな家庭ですから、勉強なんて、はっきり言って、全然しないし、しなても、親は、怒ることはない。その代わり、内職しないと、兄貴たちに『治郎ずるいぞー』と強か殴られました。そんな時、私を庇ってくれたのは、お袋です。この当時、親は、子供の教育ほとんどノータッチ。ビートたけしの母親は、その点、立派。
私の親は、ノータッチ。その代わり、兄や姉が親代わり。全く俺は、末っ子だから、いつも、怒られるだけ。自分もしかる身分なりたいとつくづく思った。