私の周りは、急激に変わりました。なぜ、勉強のできる連中が傍に寄ってきたのです。
そうすると、私も、変わらざる得なくなりました。あの夏休み以来、私は、「勉強のできる治郎」を演じぜざる得なくなりました。これが詐欺師・治郎始まりです。普段勉強全くしてない振りして、家に帰ると『ガリ勉』に徹しました。だから、その後テストは、一番には絶対なれなかったが・・。それなりの勉強を維持することができました。けど、私は、自分の実力と思っていませんでした。なぜ?それは、過去の中一までの勉強ほとんど分からずに積み上げたものでした。だから、真ん中ガランドウの学力だということを十分に知っていました。ともかく、勉強の楽しみを覚えたのは、確かです。人間がこんなに変身できることを身もって知りました。それと、わたしが勉強できたのは、先生の問題が想像できたからです。その先生の問題傾向が私には、よーくわかっていました。だから、すこし点数が良かっただけ。人間分析の力で実力と呼べる者ではありませんでした。
けど、それによって、私自身ももしかして、俺勉強できるのか?自信は、全く無かったが点数が取れるようになった私は、いつか『医者』という職業にあこがれを持つようになっていました。そのことは、中学校の仲間には、絶対言いませんでした。もちろん、家の誰にも・・・。
押し入れの中で考えた最初の未来予想図です。すなとも、これによって、高校三年間
勉強に励むことができました。三年間いろいろな仲間と切磋琢磨して、互いに励まし
時として、徹夜して、勉強に打ち込みました。苦しいと一つも思いませんでした。納得した高校生活でした。そして、自分の限界までやっても、国立の医学部は、無理とわかりました。そう、そんなに頭良く無かった。
俺の高校時代友達で三浪して・・・。けど、彼は、一度は、私立の医学部受かった。「おめでとう。」と言いたかったが当時のお金で?円の寄付金だが・・・。よわかんないお金が必要だったので・・。彼は、再び医学部めざし、がんばり続けたすばらしい『男』がいました。
その後です。私は、そうだ。文化系の大学行き、教師にでもなろう。
文化系なら、楽だし、どこでもいい。先生にさえなれば・・・・。
そんないい加減な気持ちで教師を目指し、・・・・・・・。
37年間、それをやり遂げることができました。これも、中学の佐藤久先生、高校の担任
の土井健吾先生のお陰だと思っています。特に土井先生は、私の家が貧乏なのを充分わかっていて私の図書館司書の仕事をくれました。浪人時代お金に不自由しなかったのは、先生が私に仕事を紹介してくれたおかげです。
その後、私は、大学で落語研究会に入り、自分のどもりというハンデを克服することができました。そして、教師となり、たくさんの失敗にまみれながらも、支えくれた生徒・保護者・同僚の皆さんありがとうございました。無事に教師生活を終えることができました。教師生活については、また、後日書きたいと思います。
「ななお」君、わかったかな。俺が教師になった理由・・。佐藤先生というすばらしい
先生に会っていなかったら、教師は、好きになれなかった。いろんな先生がいる。
先生も人間。失敗もし、・・・。一つだけ、悪口言っている限り、絶対にその先生からは、
学べない。
「我以外皆師」この気持ちで人に接すれば、君は、もう充分・・・。
また、連絡ください。君の手紙読んで、私は、涙しました。ありがとう。謝・謝。
そうすると、私も、変わらざる得なくなりました。あの夏休み以来、私は、「勉強のできる治郎」を演じぜざる得なくなりました。これが詐欺師・治郎始まりです。普段勉強全くしてない振りして、家に帰ると『ガリ勉』に徹しました。だから、その後テストは、一番には絶対なれなかったが・・。それなりの勉強を維持することができました。けど、私は、自分の実力と思っていませんでした。なぜ?それは、過去の中一までの勉強ほとんど分からずに積み上げたものでした。だから、真ん中ガランドウの学力だということを十分に知っていました。ともかく、勉強の楽しみを覚えたのは、確かです。人間がこんなに変身できることを身もって知りました。それと、わたしが勉強できたのは、先生の問題が想像できたからです。その先生の問題傾向が私には、よーくわかっていました。だから、すこし点数が良かっただけ。人間分析の力で実力と呼べる者ではありませんでした。
けど、それによって、私自身ももしかして、俺勉強できるのか?自信は、全く無かったが点数が取れるようになった私は、いつか『医者』という職業にあこがれを持つようになっていました。そのことは、中学校の仲間には、絶対言いませんでした。もちろん、家の誰にも・・・。
押し入れの中で考えた最初の未来予想図です。すなとも、これによって、高校三年間
勉強に励むことができました。三年間いろいろな仲間と切磋琢磨して、互いに励まし
時として、徹夜して、勉強に打ち込みました。苦しいと一つも思いませんでした。納得した高校生活でした。そして、自分の限界までやっても、国立の医学部は、無理とわかりました。そう、そんなに頭良く無かった。
俺の高校時代友達で三浪して・・・。けど、彼は、一度は、私立の医学部受かった。「おめでとう。」と言いたかったが当時のお金で?円の寄付金だが・・・。よわかんないお金が必要だったので・・。彼は、再び医学部めざし、がんばり続けたすばらしい『男』がいました。
その後です。私は、そうだ。文化系の大学行き、教師にでもなろう。
文化系なら、楽だし、どこでもいい。先生にさえなれば・・・・。
そんないい加減な気持ちで教師を目指し、・・・・・・・。
37年間、それをやり遂げることができました。これも、中学の佐藤久先生、高校の担任
の土井健吾先生のお陰だと思っています。特に土井先生は、私の家が貧乏なのを充分わかっていて私の図書館司書の仕事をくれました。浪人時代お金に不自由しなかったのは、先生が私に仕事を紹介してくれたおかげです。
その後、私は、大学で落語研究会に入り、自分のどもりというハンデを克服することができました。そして、教師となり、たくさんの失敗にまみれながらも、支えくれた生徒・保護者・同僚の皆さんありがとうございました。無事に教師生活を終えることができました。教師生活については、また、後日書きたいと思います。
「ななお」君、わかったかな。俺が教師になった理由・・。佐藤先生というすばらしい
先生に会っていなかったら、教師は、好きになれなかった。いろんな先生がいる。
先生も人間。失敗もし、・・・。一つだけ、悪口言っている限り、絶対にその先生からは、
学べない。
「我以外皆師」この気持ちで人に接すれば、君は、もう充分・・・。
また、連絡ください。君の手紙読んで、私は、涙しました。ありがとう。謝・謝。