台湾治郎

自分の生涯・現在の生活

プログ13 重大な変わり目

2012-09-16 19:18:23 | 台湾
14歳。中学二年生です。もちろん、初恋もしていた。そんな多感な時期に初めて
自分というものと向き合いました。「俺は何?。何をして生きていくの?。わかんない。」
特技は、ない。少し『どもり』で恥ずかしがり屋で甘えん坊。これといって、ない。
女には、とても、とても、興味ありました。いわゆる『スケベ』兄貴の『エロ本』隠れて読んでいました。これが今でも覚えている。
けど、難しい。ま、いいや。この夏休み立石図書館に34日間通ってみょう。月曜日と月末の休館日を除いて毎日、お弁当を持って通いました。座るところも、おじさんに取ってもらい『34番』の座席に座りました。(大好きだった金田正一の背番号。)不思議。夏休みのワークとノートを持って行って、一日過ごす。
ここで、人生で初めて、本と出合いました。初めて読んだ本は、山本有三の『女の一生』
面白い?。なんか不思議でした。おんな・女・オンナへぇー。よくわかんない。
偶然同じ題名の本を見つけました。これは、モーパッサンの『女の一生』こっちの方が
よく分かりました。こんなあらすじだったように覚えています。主人公の女の人が少女から妻・母そして、離婚の末、新しい人生を歩むというような話。
それから、本という本を読むこと・読むといろんな人の人生が見えて・・・。
面白い。なんで、こんなに面白いこと早くから知らなかったのだろう。
まず、本の世界が私をすこし「おとな」にしてれました。
二つ目の変化は、自分の部屋を持ちたい。兄貴たちに邪魔されない空間・自分の部屋・・・。
当時は、もう三畳一間ではなく20畳と16畳の二部屋。変な部屋でしょう。
うちのおやじか倉庫だったところをいろいろ工夫して建てた家。そこで、私は押入れを
自分の部屋に改造しました。天井をぶち抜き、机・スタンドを入れ、精一杯の工夫をし、
生まれて初めて自分だけの部屋を持ちました。夏は、堪らず暑い・・・。それでも、
その狭い部屋で精いっぱい空想したり、妄想したり、ひとり、エッチをしたりしました。
 この夏休みが大きな大きな転機。
夏休みが終わり、休み明けテストがありました。当時私の葛飾区立双葉中学は、一学年
9クラス400名位いました。私は、自慢じゃないが、成績は、大体真ん中か、少し下。
ま、勉強しなかったし・・・。興味もなかった。成績で人生が決まるわけない・・・。
ところが、なんと『私の名前が7番』に書かれているではないですか。ホント。本当。
自分でも信じられなかった。なんで、なんで、よくわからん。
そうすると、どうでしょう。わたしは、全く変わっていないのに私に対する周囲の見方
が変わったのです。そんなことってある。あるだよ。
私は、依然として、恥ずかしがり屋で照れ屋のどもり。すぐ真っ赤になる・・・。
 そんな風に生活しているうちにもう一つの転機。佐藤先生がある時間私をべたほめしてく
れました。私の人生で先生に『褒められたのは、この一回。』なせ?。そんなに褒められたのか。それは、みんなの考えた答えと全く反対の意見を言ったからです。そのことがその後の人生で
大きな意味を持つようになってきました。つまり、先生に褒められた。私の時代、ひとクラス
45人位居たように思ったが・・。中学二年生まで「先生に一度も認められなかった生徒。」
そんな生徒たくさんいました。
2012年の今なら、大変恐ろしいことですがその当時そんなこと当たり前。

プログ12 小学生が新聞配達!!

2012-09-16 09:41:18 | 台湾
プログ12 小学生が新聞配達!!
私は、小学校五年から、『新聞配達』をするようになりました。男は、全員新聞配達。
女は、働くか、家事。
だから、私は、歌を毎日、毎日、歌いながら新聞配達をしました。
なぜ?。歌うのか。寒いから。
吉永小百合・橋幸夫の『寒い朝』この歌知っている人・・・。
しもやけ・あかぎれ・鼻水・毎日・毎日。寒いの大嫌いなのは、この経験から。(だから、温かい台湾にきた。)昭和37・38・39年の話。まだ、生まれてないでしょう。
ま、とにかく、夜中の三時に11歳の子供が起きることは、大変なこと。これが私の原点。この三年間、私は、人生の土台を作ってくれました。
この経験を話すと、大部分の人、嘘―という。(今、フリッピン・タイ・ベトナム・カンボジャア・東南アジアいけば、同じ風景見られます。
もっと、東南アジアひどいかも・・・。また、話が飛ぶ。)
私の家族が集まると、いつも同じ話。大須賀さんの三畳一間の話。本当ですか?。
中国語では、『真的ま』(ジェンダマとかゼンダマ。いうらしい?。まだ、このレベル。)
本当の話。
では、いつ教師を目指したのですか。
前回話したように、私は、中学一年生まで、義務教育中7年間勉強しませんでした。しないというより、できなかった。興味が全くなかった。だから、自慢になりますが、筆順・
ローマ字・点・○、です・ます、文章の常体とか敬体とか中一までに習ったこと全然知りませんでした。習ったのだが聞いていなかっただけ。だから、その当時も、今も怪しい。
ローマ字は、未だに苦手中の苦手。これも『ひらがな』入力で打っています。
そんな私に転機が来ました。お袋が「治郎おまえ、もう新聞配達しなていいよ。」いってれました。『本当?』『えーー。やるよ。結構好きになってきたから・・・。』
中学二年の夏休み前だったように覚えています。
うーん。これから、何をしょう?もう中学生ですから、ビー玉・メンコは、卒業していました。たまに『将棋』が好きで、床屋さんで、年中指していたのを覚えています。
突然、沢山の時間を貰っても・・・・。
うーん。わかんない。『聽不とん』(言っていることがわからない。)
考えました。真面目に初めて、自分の人生これからどうなるのか。