台湾治郎

自分の生涯・現在の生活

ブログ18 私とギャンブル ②

2012-09-22 00:47:04 | 台湾
私は、広い意味で『人生は、ギャンブルだ。』と思っています。それは、何にお金を使うかという意味です。お金というものを賭ける。何に賭けるか。留学は、意味あって、
パチンコは、意味ないなんて、思ったことありませんが・・。今回の台湾で生活することで家族からも離れひとりで生活することで・・・。いろいろ考えが変わりました。
賭ける値打ちの物に賭けるべき。お金は、大切で貴重です。だから、子供の教育に日本も
台湾も、アメリカも・・・。世界中の親が子供に金を掛けています。それは、ギャンブルとは言っていないと思う。
 前なんかの雑誌で「東大の親の年収と子供の教育費の平均」を読んだことあります。
本当に、そのことがいいこと?幼児教育・小学校教育をあまり、熱心に受けなかった私としては、・・。わかりません。はっきり言って、現在のような教育熱心な時代・・・。
いいことなのでしょう。けど、なんか、親がレールを敷きすぎているような気もする・・・。
いつからなら良いのか。わかりません。
環境は、大切です。確かに、悪い学校へいけば、悪い奴も多い。いい学校いけば、優れている・才能のある人に啓発を受けることも多い。
大切なのは、本人。本人が何をしたいか。それ。本人次第。賢い親は、本人の主体性を
大切にしながら、本人を応援・支援する。
今回の台湾留学は、恐らく私の最後の賭だと思います。もちろん、私の夢は、途中で終わるかもしれません。病気等様々な理由で変更を余儀なくされるかもしれません。けど、それは、それでいいのです。結果は、途中の計画・準備・構想等しっかりすればいいのです。途中で倒れても、我が人生に悔いは、ありません。
私は、充分毎日、台湾に来て、日本にいた時代の「禊ぎ」をしています。そして、台湾で自分の第2の未来予想図に向かって、走り続けるつもりです。走っている限り、歩いている限り、いつかゴールにたどり着きます。大切なことは、簡単に「諦めないこと」
自分の人生に責任を負う。私は、元妻によく言われました。「あなたは、いつも子供のこと考えている教師だが、1番身近な人間を幸せできなくて、どうして、教師が務まりますか」かなり、厳しいが真実です。
今、家族を捨て1人、台湾で一人の人間として、裸になって、台湾に根付いていく決心です。私がこの賭に勝つか負けるか最後まで見届けてください。台湾に生きている限り・・・。
ブログを書き続けていきたいと思います。
再見。

ブログ17 私とギャンブル1

2012-09-21 00:39:47 | 台湾
私がギャンブルをしたのは、もう、55年前の話。当時、葛飾では、いろんな遊びありましたが、ビー玉・メンコ・ベーゴマ・・・。子供の遊びでしたがすでにギャンブルでした。負けた者は、新しいビー玉・メンコ・ベーゴマ買わなくてはならない。たくさん持っている者は、自分の持っている物を売ります。これは、確かに、ギャンブル。
勝つための努力は、大変なものです。当時、十円であめが20個買えました。そんな時代です。大村崑というタレントが「十円もろた。十円もろた。」というギャグがあるくらい。
十円で、紙芝居も見られました。その十円も私は、無いときがたくさんありました。
だから、負けたときは、毎日、毎日、自分の得意なビー玉を練習しました。しかも、石ころで・・・。生きるための精一杯の努力。貧乏な人は、いつも、必死に生きていました。
もちろん、ビー玉・メンコ、ベーゴマ盗む奴もいました。少し油断していると大変。
そんな、子供時代を過ごし・・・。毎日・毎日・遊び。時に働きました。そんな生活ですから、勉強は、全く縁がありません。
 中学生時代に麻雀を覚えました。幼なじみのYやTやNが教えてくれました。もちろん、お金を掛けて・・。点0.1または0、3 または、0.5。麻雀やらない人は、何それ、簡単に言うと、負けると、いくらかの現金が動く。1回で最初は30円。90円か150円動く。勝者は、初め決まっていました。なぜなら、私は、ちんぷんかんでやっと、ルールが理解できるレベル。そのレベルは、牌の並べ方で大体わかります。早い奴は、概して、『うまかった。』ところがうまい奴が必ずしも勝つとは、限らないのが・・・。これで、はまった。
 麻雀というゲームは、うまい奴が必ず勝とは、限らない。その日の流れ・運によって左右されることがわかるようになると・・・。もう夢中。学校早退して、友達の家でやったこともあります。ちょうど中3。受験生の頃。私は、勉強は、相変わらず、押し入れでやっていましたが・・・。麻雀も一生懸命・・・。
 麻雀は、今もやっています。今は、学校の先生の集まりでやっています。フリーの雀荘に入り浸ったときも・・・・。恐らく、今、私の知っているゲームの中で1番面白い。
(囲碁・将棋は、また、別。)ギャンブルとして、1番。
 次にはまったのは、パチンコ。これは、長くやったが・・・。はまっているときは、面白かったが・・・。現在は、・・・。面白くない。なぜ?しくみがわかって、勝つ方法は、あっても時間が長すぎる。だから、止めました。
 最後は、オートレース。これは、面白い。今も時々見ます。ほとんど、詐欺のような
予想ゲーム。実に、面白い。強い者が弱い者に負ける。ハンデがあるから。知らない人は、
つまらないでしょう。8人でオートバイを6周走り、一位・二位・三位を予想する賭け事。
公営ギャンブルの中で、マイナーなギャンブル。有名なのは、競馬。次に競輪・競艇。
オートレースファンは、1番少ない。会場6会場。選手約600名。
ま、これも、話せば長―い歴史。約20年ぐらい。
 恐らく、すべてギャンブルに使ったお金・・・?想像できません。私は、余り物を買わない。現在も必要な物以外買わない。勉強に関係する物は、多少高くても買うが・・・。
だから、すべてのお小遣い・・・。時にそれを大きく超えることもたびだび。奥さんは、大変だったと思う。今でも・・・感謝。
 ま、これは、血だと思っています。俺の親父の『血』が騒ぐ・うごめくのがわかるのです。
そうなると、もう止まらない。とことんやらないと気が済まない。時として、『バカだなあー』と思いながらも・・・。また、始めてしまう自分がいた。台湾に来て、1番良かったのは、ギャンブルの無い環境ができたこと。もちろん、ネット上でやれば、いくらでもできますが・・・。そこまでは、追いかけたくない。
 現在の環境をくれた・たくさんの人に感謝。(特に元奥さん)

プログ16  母親の贈り物。 

2012-09-19 18:44:50 | 台湾
私の母は、1924年生まれだと記憶しています。もちろん現在生きていません。私の心の中で充分活きています。
 私は、幸せな男です。6人兄弟の末っ子で、最後にお袋の乳房を1番多く吸っていました。母親が40代ぐらいの時、私に大きい乳房を見せて、『これは、治郎がいつまでもおっぱいを吸っていたから、ばい菌が入り、傷が化膿したんだ。』確かにお袋の乳房の処に傷ができていました。
 末っ子というのは、母親の愛情を1番強く受けました。(これは、我が家のみ。)母親は、高等小学校まで、教育を受けたようです。女学校も行きたかったそうですが・・・。杉戸町の田舎の娘の長女。5・6人の妹弟がいたようです。堀切のおばちゃんだけが近所に住んでいたので、しっかり覚えています。
 とにかく、彼女は、私に充分な愛情だけは、たくさんくれました。おしゃべりで・口八丁・手八丁の根っからの商人という感じです。我が家が生活できたのも、彼女が当時『闇米』という商いをしていたからです。とにかく、いつも元気に働いて、人に親切・少し
お節介気味でしたが・・。姉御肌のとても・とても善人でした。
 たくさん想い出ありますが、現在では、信じられない想い出を二つ話したいと想います。
一つ目は、名前は、『次郎』。本当!!。  
私の名前は、15歳まで『次郎』でした。私は、15歳の時、初めて自分の名前が「治郎」だと知りました。それは、高校へ入るため、戸籍抄本というものを高校へ送るため、自分の戸籍を見て、難じゃこゃ????。こんなことってある。
ま、何かの手違い?。
だって、小学校・中学校の通知表ずっーと『次郎』だったよ。えー。俺も、何で
4男の俺が「次」なんだろう。けど・・・。不思議というより、親は、余り通信簿
など、見ていなかった。見るゆとりが・・。ま、これは、自分にとって、晴天の霹靂。
ま、俺が納得すれば・・・。
二つ目は、お袋は、親父の前に結婚していた。その子が2人の姉と兄貴。畑違いの兄弟。
その他の4人は、現在の父親の子であった。ここまでは、許せるが、次に、親父と
母親は、一度離婚をして、もう一度同じ人と結婚していた。俺は、幼すぎてその間
の事情は、姉と兄に聞いた。落語みたいな話信じられる?

私は、お袋からたくさんの愛情①「情」を頂きました。貧乏でも、愛情だけは、
金持ちに負けないものを持っていました。私が「泣き虫」なのは、お袋の影響
だと思います。②働くことの大切さ③お金は、稼ぐもの。貰うものではない。
④モラル(人の物を盗むな・倫理。)
私が母親から、一度だけ殴られたことがあります。それは、小学校四年で兄貴と
一緒に上野の「赤札堂」というデパートに行ったとき私が魔が差して、鉛筆二本
万引きしました。、捕まったとき、お袋にこっぴどく殴られました。私は、泣いている
お袋をまともに見られませんでした。泣きながら「お前を泥棒にするために、
育てているじゃないんだ。・・・。鉛筆が欲しければいつでも買ってあげる・・・。
そういいながら、したたか私を殴りました。わたしは、「ごめんなさい。ごめんなさい。」
何度も謝りました。
 人間って、不思議です。50年も前のことをホントに覚えている。
まるで『映画』のシーンでも、見ているような想いです。もちろん、
これを書きながら涙しています。その後、私は人の物には、手を出して・・・?
再見。
  

ブログ 15 親父のこと。

2012-09-18 19:08:31 | 台湾
親父は、とても、穏やかな人でした。私は、親父に怒られたこと・・・一度もありません。仮に怒鳴れることあっても、兄貴達のように私を殴りませんでした。
一度も、記憶だから・・・。私が記憶して限り、ま、5?・6歳時代の記憶だから・・・。とにかく、おとなしい・優しい人でした。
 働き者で器用で・・・。何でも作る人・・・。信じられる、コンリートの倉庫が家に変身―――。ホントの話。
 だって、彼は一ヶ月ぐらいで、堀切菖蒲園に家作りました。ま、それは、信じるとして・・・。
彼、文字をあまり、書けませんでした。ホント。治郎ちゃんのお父さんって、何年生まれ。
1912年・大正元年。今から、百年前の話。彼の家?。見たことありません。彼の故郷のこと。新潟生まれで・・・・。東京に。そして、苦労に、クロウを重ねて俺のお袋と結婚。
父親のお母さんつまり、私にとっては、おばあちゃんとは会ったことあります。一緒に生活していました。私が、中学2年から大学に入る直前まで・・・。約5年間。ちょうど私が勉強し始めたときとほぼ同じ時期でした。だから、おばあちゃんの最期私が看取りました。不思議でした。人の死、こんなに穏やか・・・。とても、とても、・・・・人でした。
 親父の話に戻ります。彼は、小学校ろくに行っていない。だから、環境が大切だと言っているだろう。人間は、
学ぶ環境が無ければ・・・。文字もわからない。けど、彼の夢は、・・・・。
私と同じ医者になりたかったと聞いたことがあります。もちろん彼は、志願兵。
なぜ。新潟では、子たくさんで、食べられない・・・。だから、自分から、兵隊に。
ここで、彼は、いろいろな訓練を受けました。
はっきり、初めて教育らしい教育を軍隊で受けたのだと思います。鉄砲の撃ち方・テントの張り方・火のおこし方・衛生兵として、治療の仕方も・・・・。
彼は、今の私と同じ。嬉しかった。学ぶことができて・・・・・。
だから、私は、学歴とか、教師とか、医者とか、ワッペン信じません。
いつも、親父は・・・・。なんで小学校も出ていないのにこんなにいろいろなものつれるの?その当時親父の仕事は、三つありました。
うぇー。三つ?。一つ目は、ガラス職人。二つ目は、アサリ売り。ほら・・・。
台湾でも、物を売っているだろ!もの売り。朝は、アサリ。夕方は、玄米パン。(私の小学校時代のあだな「あっしょい」「あっしょ」何それ?。あさり・しじみを短くいうと「あっしょ」このあだ名大嫌いでした。そういう奴とは、いつも喧嘩していました。
喧嘩決して、強くないが「絶対許さない気持ち」でぶつかりました。だから、私は、余りいじめられませんでした。人間って、本等の『怒り』に出逢うと・・・。相手は、私を認めてくれるものです。)
三つも仕事持っているのにどうして、治郎ちゃん小さい頃から『貧乏』かの?。
簡単です。それがギャンブルです。当時、親父は、いつもいつもギャンブル場へ出入りしていました。もちろん、公営ではなく、私設。うぇー。日本では、私設ギャンブル違法。
もちろん、違法。毎日・毎日・毎日・毎日・毎日・毎日・毎日。ホント、それで何とか
お金回る?私は、当時なぜ私の家貧乏だったか知りませんでした。それは、15歳の時初めて知ったこと。すべて、わかりました。その後私設のギャンブル場で親父警察に何回か
捕まり・・・。
それからは、公営ギャンブル。だから、家がずっーと貧乏。
私は、親父の血を1番強く引いています。
親父と昔の後楽園競輪行ったことあります。まるで別人。俺の知っている穏やかな・
優しい『親父の顔』では、ありませんでした。
 夢中。とはこういう顔。鬼・怒り・阿修羅の如き顔。初めて一緒に行って、親父の別の
面を見た。人間は、多面体。あるときは、優しい父・あるときは、人の良い商売人。
あるときは、汗水流している真剣な顔。そして、ギャンブルしているときの顔。
 感謝しています。丈夫な身体。頑固な意志。優しいところ・親父から受け継ぎました。
何よりのおみやげ。プレゼントは、ギャンブル。
 

プログ14 初めての未来予想図。

2012-09-17 16:46:25 | 台湾
私の周りは、急激に変わりました。なぜ、勉強のできる連中が傍に寄ってきたのです。
そうすると、私も、変わらざる得なくなりました。あの夏休み以来、私は、「勉強のできる治郎」を演じぜざる得なくなりました。これが詐欺師・治郎始まりです。普段勉強全くしてない振りして、家に帰ると『ガリ勉』に徹しました。だから、その後テストは、一番には絶対なれなかったが・・。それなりの勉強を維持することができました。けど、私は、自分の実力と思っていませんでした。なぜ?それは、過去の中一までの勉強ほとんど分からずに積み上げたものでした。だから、真ん中ガランドウの学力だということを十分に知っていました。ともかく、勉強の楽しみを覚えたのは、確かです。人間がこんなに変身できることを身もって知りました。それと、わたしが勉強できたのは、先生の問題が想像できたからです。その先生の問題傾向が私には、よーくわかっていました。だから、すこし点数が良かっただけ。人間分析の力で実力と呼べる者ではありませんでした。
けど、それによって、私自身ももしかして、俺勉強できるのか?自信は、全く無かったが点数が取れるようになった私は、いつか『医者』という職業にあこがれを持つようになっていました。そのことは、中学校の仲間には、絶対言いませんでした。もちろん、家の誰にも・・・。
押し入れの中で考えた最初の未来予想図です。すなとも、これによって、高校三年間
勉強に励むことができました。三年間いろいろな仲間と切磋琢磨して、互いに励まし
時として、徹夜して、勉強に打ち込みました。苦しいと一つも思いませんでした。納得した高校生活でした。そして、自分の限界までやっても、国立の医学部は、無理とわかりました。そう、そんなに頭良く無かった。
俺の高校時代友達で三浪して・・・。けど、彼は、一度は、私立の医学部受かった。「おめでとう。」と言いたかったが当時のお金で?円の寄付金だが・・・。よわかんないお金が必要だったので・・。彼は、再び医学部めざし、がんばり続けたすばらしい『男』がいました。
その後です。私は、そうだ。文化系の大学行き、教師にでもなろう。
文化系なら、楽だし、どこでもいい。先生にさえなれば・・・・。
そんないい加減な気持ちで教師を目指し、・・・・・・・。
37年間、それをやり遂げることができました。これも、中学の佐藤久先生、高校の担任
の土井健吾先生のお陰だと思っています。特に土井先生は、私の家が貧乏なのを充分わかっていて私の図書館司書の仕事をくれました。浪人時代お金に不自由しなかったのは、先生が私に仕事を紹介してくれたおかげです。
その後、私は、大学で落語研究会に入り、自分のどもりというハンデを克服することができました。そして、教師となり、たくさんの失敗にまみれながらも、支えくれた生徒・保護者・同僚の皆さんありがとうございました。無事に教師生活を終えることができました。教師生活については、また、後日書きたいと思います。
「ななお」君、わかったかな。俺が教師になった理由・・。佐藤先生というすばらしい
先生に会っていなかったら、教師は、好きになれなかった。いろんな先生がいる。
先生も人間。失敗もし、・・・。一つだけ、悪口言っている限り、絶対にその先生からは、
学べない。
 「我以外皆師」この気持ちで人に接すれば、君は、もう充分・・・。
また、連絡ください。君の手紙読んで、私は、涙しました。ありがとう。謝・謝。