私自身、かなり偏屈な理屈屋であると感じている。
ここで少し私の組織活動について書いてみたいと思う。私は創価学会の「学会二世」として生まれてきた。しかし両親が熱心な活動家などではなく、それこそ座談会の脇にひっそりと参加する程度の学会員の家庭に生を受けた。
両親が入会していると言っても、父親は活動家では無かった。これは私が壮年部になった時に母親に聞いた事だが、父親がとある事故にあった時にそれを「仏罰」という様にして流布された事に我慢がならず組織から離れたとの事だった。まあけして言われるままに組織で活動していたわけではないので、その為ではなかったかと思う。また母親も一応活動家の端くれには連なっていたが、やはり自分のスタンスを持っていたので、細かい事で婦人部の中でぶつかっていた事もあったようだ。
そんな家庭であった事から、私は少年部時代、1年生の新入生歓迎の会合で1回だけしか参加をしていなかったし、自分の家が創価学会であるという意識もなく中学生まで過ごしていた。私が覚えているのは小学五年生の時、母親が大病して「御題目を唱えて」と言われ、そこから勤行と唱題を始めた事だ。
まあそんな未来部時代を過ごし、高等部や学生部では呼ばれてそこそこ活動はしたが、長持ちする事は無かった。要はよく「バックレる部員」という感じだった。(この時代も色々とあったが、ここでは割愛する)
しかし社会人になった時、もともと私は「甘ちゃん的な性格」であった事もあり、職場で仕事を干されてしまった。要は「斎藤君は仕事が出来ないから仕事をあげない。」と会議の場で上司に言われ、そこから本当に職場内失業の状態に置かれてしまった。この時、初めて自分という事、また人生について振り返りをする事になった。またタイミング良く、その時に創価学会男子部の先輩が来て激励され、「そういえば創価学会というのはどんな組織なのか、自分とは何なのか知る為に一度本気で関わってみるか」という事で活動を始めた。これは昭和六十年代初めの頃だった。
活動を始めたらすぐに「創価班」なる人材グループに入れられ、一年間の間で折伏一世帯を命じられ、この時には脇目も降らずに折伏に走った。対話した友人は有に100名を超え、様々な友人と会い仏法対話をしたが一向に実りはしない。同期に創価班に入ったメンバーはほとんど1世帯を達成する中、私は何時も未達成で会合の中では叱られる立場でもあった。あまりに折伏が出来ないので周囲の先輩の多くも「斎藤には無理か」と言われる中、ある先輩だけが見放さずに居てくれて、結果、期日ギリギリだったが1世帯の本尊流布をする事が出来たのである。
するとそれから1週間経たず、職場の上司から「斎藤、この仕事をやってみるか?」と声をかけられた。それまで職場内失業状態の私は、今自分で出来る事をしようと、職場で1台のパソコンを借り受け、そこで必死にパソコンについて学んでいた事を上司は見ていてくれたのかもしれないが、ここでチャンスをもらう事が出来たのである。
結果、そこで仕事をやり切り職場における自分自身の立場も確立する事が出来て、当時は小さいソフトウェア開発会社にいたが、その会社の中で「OS周りや装置周りは斎藤に任せれば大丈夫」という信頼を得る事が出来たのである。
こんな感じで、いわゆる「信仰体験」は幾つも経験し、男子部という組織内でも紆余曲折はあったが、30代後半には県幹部まで任される事になり、創価班という人材グループの中でも総県幹部として任される事にもなった。折伏という事で言えば、部員に頼まれたら同行し、そこで学会で言うところの「入信決意」をいくつも成し遂げてきたし、そこから入会したメンバーもそれなりにいた。若い時には仏法対話と折伏には煮え湯を飲まされたのも、こういう事の意味があったのか等と当時は感じたものだった。
また仕事についてもこの間、2回ほど転職をしたが、いずれも「うちに来ないか」と知人から声を掛けられての転職で、2回目の転職では新規部門を立ち上げる事を任され、小さいながらも部門の責任者を任され、社員の採用から設備の準備など、役員として仕事をしていたのである。
30代半ばには今の嫁と出会ったが、この縁も男子部の時の知人夫婦の紹介だった。この知人はとてもユニークな人で、私が男子部で部長をやっていた時に地元に引っ越しをしてきた人だった。奥さんは当時未入会であったが旦那が学会活動をしている事には一定の理解を示していた。当時、私は組織内で家庭訪問が終わると最後にはいつもこの男子部の家に立ち寄っては、旦那が寝ている脇で奥さんと酒を吞みながら様々な事を語り合っていた。奥さんからは彼女はいないのかと聞かれ「時間が無いので出会いもないです」と言うと、「そうだよね、忙しすぎるよねー。私も斎藤君には彼女は紹介できないわ」とよく言われたものだった。しかしそれから十年後に、ふとした事から今の嫁をこの夫妻から紹介され結婚に至ったのである。
その他にもいわゆる「信仰体験」といった類の事は多く経験している。男子部時代にはそういった事もあって、創価学会に対して大きな疑問を持つ事は無かった。いや、正確には自分自身の中には疑問の萌芽が出始めていたが、それを封印していたと言っても良いかもしれない。何故ならば、当時の私の中には数々の信仰体験に裏付けられたと信じている組織への絶対的とも言える信頼を持ち合わせていたからだと、今から考えてみると感じている。
私が初めて疑問を持ち始めたのは、とある選挙支援活動の時だった。当時は県幹部として支援のための企画室なる場所に入り、そこを活動の場としていた。また私生活では会社も事業縮小のために役員をしていたがリストラとなり転職、子供もまだ小さい頃で、何かと仕事に没頭していた時期でもあった。会社に朝出ると終電までは帰る事も出来ず、早く帰宅しても地元には午前0時頃になっていて、企画室にはあまり顔を出す事も出来ずにいた。また当時転職した会社には男子部が2名いたが、彼らは学会活動を主体に動いていたので何かと仕事が遅延していて、私がその分の仕事をかぶり行っていたので、日々、仕事が山積み状態となっていた。
県幹部として企画室に入りながら、実際には顔も出せないほどに仕事も詰まっている中、時間が出来たときには企画室には顔を出す様にしてはいたが、一度企画室に行くと、やる事の有無にかかわらず午前三時近くまで拘束をされてしまい、結果、帰宅は午前四時近くになってしまう。理由は単純な事で、職員幹部が企画室に来るまで担当者は帰宅してはならないという指示が出ていたのだ。これは企画室でやる事の有無に関わらずだ。
選挙期間では早い時には帰宅した後、午前六時前には駅頭に集合し場所取りからビラ配りまで行う事もあった。そんな事から次第に私の足は企画室から遠ざかりはじめ、選挙活動の半ば頃には殆ど顔を出さなくなってしまった。何故ならば企画室に出てしまうと結果的に翌日の仕事に大きな支障を来たしてしまい会社にも迷惑がかかる。家族を持ち、就中、子供もいる中で仕事に影響を出るのだけは防ぎたかったという事もあった。企画室の責任者である職員幹部に当初は連絡を入れてはいたが、何回も続くと「何をやってんだよ!」という雰囲気が電話の先でもありありと判るので、電話する事もおっくうになっていた。
そんなある時、職場にいる男子部から「斎藤さん、組織でエライ言われてますよ。”斎藤はつぶれた”とか”斎藤は退転した”なんて事が県内の随所で言われています。〇〇さん(総県幹部)なんかは”斎藤はもう潰れた”なんて言ってましたよ」という事を聞いた。確かに私は企画室にも顔を出していないし、連絡も最近は入れていない。携帯電話には一日で50件以上も様々な幹部から着信履歴が入っていたが、仕事中には携帯電話は放置していたので気にもしなかった。だから「潰れた」「退転した」と言われても致し方無いとは思ったが、それにしても「三世永遠の同志」とか言う割に、組織活動を評価軸にして人間関係が崩れてしまう組織とは一体何だったんだろうか。そんな思いが私の心の中をよぎった事は今でも記憶に残っている。
今回はここまでとするが、私が創価学会に対して失望を抱くにはもう少し様々な出来事があった。それについてはもう少し書いていく。