自燈明・法燈明の考察

法華経の示す事の考察⑤

 前の記事では精神医療の中から見えた事、これは前世療法を実施する中で仏教で言う中有(中間世)と出会い、多くの臨床例の中から久遠実成に類似した事が見られた事を紹介させて頂いた。思うにもし「久遠実成」と「一念三千」で説き示されたものが普遍的なものであれば、これは何も仏教の中にとどまるものではなく、人の心への探求が進む中で、類似した事が見つかってもおかしい事ではない。

 今回の記事では、私が類似していると思う事例として、ニール・ドナルド・ウォルシュ氏の「神との対話」の内容について紹介する。
 ニール氏はアメリカのウィスコンシン州ミルウォーキー生まれの企業家で、1990年代初めに自動書記により「神」からの対話が始まり、それを書籍化した「神との対話」を1995年に出版し世界的にベストセラーとなった。
 ウォルシュ氏は苦しみや悩みがあると、送る当てのない手紙を書く習慣があった。1992年の春、行き詰った人生に激怒し、テーブルに置いてあったノートに憤りや怒りを書きなぐっていたが、その時にペンを持つ自分の手が「何者」かにより拘束されたのを感じ、そこから神の言葉が自動的に書き記されるようになり、そこから書籍で紹介されるような対話が始まったというのである。

 この「神との対話」はかなりの文書量となっているので、ここですべてを紹介する事は出来ないが、幾つか興味深い内容について紹介する。

 はじめに「意識」という事について以下の対話があった。

「まずはじめにあったのは、「存在のすべて」、それだけだった。他には何もなかった。その、「存在のすべて」は、自分自身が何かを知ることはできない。なぜなら「存在のすべて」ー、あるのはそれだけで、ほかには何もないから。他に何かがなければ、「存在のすべて」も、ないということになる。「存在のすべて」は、裏返せば「無」と同じだった。」

 これは「自分(意識)」の始まりについての内容だが、この「神との対話」では私達の意識というのは宇宙の創生からともにあったという。では宇宙の始まりは何時なのかという事は言及されてはいないが、その宇宙の発生とともに「意識」というのは存在したという。しかしこの「意識」は単一な存在であり、だから「存在のすべて」という事でもあったというのだ。だから単一の意識というのは「無」と同じで、それだけの存在では意味が無かったというのである。

「「父なる神」に多くの霊の子供が生まれると語っている神話がある。生命が自らを増殖させるという人間の経験になぞらえることが、この壮大な出来事を理解する唯一の方法だったのだろう。「天の王国」に数えきれない霊が突然に生まれたのだから。
このたとえで言えば、神話は究極の現実にそう遠くない。なぜなら、わたしという全体をかたちづくっている無数の霊は、宇宙的な意味でわたしの子供だからである。」

 ここで宇宙の創生と共にあった「意識」は多くの「霊の子供」存在を生み出した事を述べている。ここではおそらくキリスト教の聖書の中にある記述を事例として語っているが、これは恐らくウォルシュ氏がキリスト教的な精神土壌を持っていた事に由来すると思われる。

「自分自身を分割したわたしの聖なる目的は、たくさんの部分を創って自分を体験的に知ることだった。創造者が、「創造者である自分」を体験する方法は、ただひとつしかない。それは、創造することだ。そこで、わたしは自分の無数の部分に(霊の子供のすべてに)、全体としてのわたしがもっているのと同じ創造力を与えた。」

 ここで何故、多くの「霊の子供」を生み出したのかについて説明しているが、先に述べた「単一で存在する意識」とは存在しない事と同じであり、それでは想像する事が出来ない。故に単一で存在する意識が分割して多数存在する事で、自分自身が何者であるかを知る事が出来る。つまり私達個々が持つ意識の存在意義とは「自分自身を知るため」に始まった。またこの世界とはこの意識が創造したものであり、単一の意識から分割した私達にも、創生と共にあった単一の意識(この神との対話の中でいう神)と同じ創造力は備わっていると言うのである。

 一旦の紹介はここまでとするが、久遠実成では遥か昔の時代に釈尊は開悟し、そこから仏として現れる事もあれば様々な存在として出現し、この娑婆世界に常にあったと説いているが、この神との対話の中で語られる神(単一の意識)と霊の子供たちの関係性とはかなり類似していると思うがどうだろうか。またここでは世界を創造したのはこの単一の意識(神)と、そこから分化した霊の子供たちと述べているが、これは大乗仏教の初期経典と言われる華厳経で説かれている「心如工画師(心は匠なる画師の様に世界を作り出す)」という言葉と類似している。大乗仏教においても初期の段階からこの世界は「人の心」が作り出したと説いていて、「一念三千」では、その仕組みがより具体的に展開されている。

 よくネット上で「祈りが叶う」という言葉がある。また創価学会でもそうだが、大石寺関係でも同様な言葉が言われている。この根源には堅樹院日寛師が六巻抄の中で「祈りとして叶わざるなく」という言葉が残されている事による。私は常に思うのだが、人というのはやはり「祈りを叶える」という能力を根源的に持ち合わせているのではないだろうか。そしてそれは何も大石寺の文字曼荼羅や日蓮の専売特許の様な事ではなく、恐らく普遍的に人類が持ち合わせている能力なのかもしれない。だからキリスト教でもイスラム教でも奇跡体験と言われ、また大石寺の信心や顕正会の信心でも「信仰体験」として語られる事もあるのだろう。しかし「祈り」というのが心の本質的な働きであれば、これだけ多くの心が存在する社会に於いては、心の相互作用の様な事も考えられるので、単純に一人の祈りが全て叶うという事もない。考えてみてもらいたい。ある人が祈った願望が、もし別の人の祈る事に不利益となるのであれば、どちらの祈りが叶う事が正解となるのか、「祈りは叶う」と言った処でこの場合には大きな矛盾を発生させてしまう。そこから考えても「祈りが叶うから正しい信仰だ」等という論理は容易に破綻して成り立たない事がよく解るだろう。

 日蓮もこの事はよく理解していたのか、唱法華題目抄で「但し法門をもて邪正をただすべし利根と通力とにはよるべからず。」と言葉を残しているが、ここで「正邪」というのは「正しく理解するため」と考えても良い。だから信仰により自分自身の心への理解を深めたいのであれば、単に「御利益信心」をしていたら見えてこないものなのだ。法華経とは「人の心」について説き顕した経典でもあるので、その法華経の示す事を真面目に学びたいのであれば御利益信仰を捨て去る必要があるだろう。


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