自燈明・法燈明の考察

事と理について③

 転職後に仕事が多忙になった事もあり、学会活動、まあ当時はとある選挙の企画室の話だが、そこから遠ざかった事を書かせてもらった。今回はその続きである。「事と理」というタイトルの中で、まるで略した自叙伝の様な内容を書く意味についてだが、私なりに創価学会の言う「事の信心」という事を突き詰めた結論をまとめるのに、どうしても私の活動略歴は書いた方が解りやすくなるのではないかと考えての事で、あまり面白味が無い事かもしれないが、お付き合いいただけたら幸いである。

 選挙も終わり、私の仕事も少し落ち着き始めた時だった。その当時は夜の9時過ぎには自宅に戻れる様になっていたが、そんなある夜、私の家に総県幹部が2名で訪問してきた。聞くと組織改編があるので、私に改編後、県青年部長をお願いしたいとの事だった。これだけ組織から離れ、また「潰れた」「駄目になった」と言われた私を青年部長にする意味があるのか、私自身は拒絶モードだった。それよりも四十歳にもなっていたので壮年部へ行かせてくれと話をしたが、それは受け入れられず話は平行線。すると総県幹部の一人が「てめぇ!いい加減にしろよ!」と言い出した。恐らく彼にしたら半端者の私に青年部長という話を持ってきてやったんだから文句言わずに受ければ良いと考えていたのだろう。
 私は彼に言った。「てめぇって誰に向かって口聞いてんだ?あ?俺だってな、一応仕事もやり家庭を持った社会人なんだ!ふざけんじゃねえぞ!」。するともう一人が「まあまあそんな怒らないでくれ。検討したけど人が居ないんだ。斎藤だって池田先生は裏切れないだろ?」
 当時の私はまだ「池田先生」という存在には尊敬の念を持っていたので、これには反論出来なかった。結果、この時には男子部生活最後の「ご奉公」として青年部長を引き受けることにした。

 その後、約一年半ほど県青年部長として活動をできる範囲でやり遂げた。この時も実に組織の様々な事を見せつけられたが、それはまた別の機会に書いてみたいと思う。

 そして四十二歳になる頃、私は壮年部に移行する事になった。なんでも規定で男子部県幹部はスライドで副支部長となり、地区部長を兼務するという話を耳にした。しかしその頃の私は、青年部長という立場で様々な事を見て、正直、組織活動には辟易していた。出来れば一部員で組織とは距離を置き、四半世紀近くやってきた信心というのを自分なりに見つめ直す時間も欲しかった。そこで壮年部の区長に会って役職を一切断る旨の話をしに行った。要は一部員に戻してくれという話をだ。すると区長は慌てふためき妥協案の様な話をしてきた。
「俺にもメンツがある。だから頼むから副支部長だけは受けてくれないか。県長にも既に言われていて、斎藤君に断られたら私のメンツが立たないんだ」
 組織長のメンツのために役職受けろ。これもまた変な話ではないか。でもこの区長、男子部時代には一時期、先輩後輩という関係で関わった人でもあったので、無下に断れずに結果、副支部長の申し出を受け、地区部長ではなく広宣長として壮年部に行く事に合意してしまったのである。

 いざ壮年部になると私が広宣長となった組織の地区部長は七十代の副区長が地区部長を兼任していた。恐らく私が断らなければこの人は副区長専任になっていたのだろう。また相方となる白ゆり長は母親と同じくらいの老婦人だったが、夫婦中も良く極めて常識人の人だった。ただ常識人が故に様々な常識的な事を地区内で積極的に声を上げる人でもあったので、何だか地区内でも疎まれているという状況で、要は「小うるさい婦人」という事だったのだろう。当時の支部長も男子部時代の先輩であったが、その支部長からは「斎藤には申し訳ないと思っている。あの人(白ゆり長)は変わり者だから上手く付き合ってくれ」と言われた。しかし話をしてみるとただ常識的な事を言っているだけで、特に偏屈という訳では全く無かった。
 まあ創価学会の中では「上に物言う人物」とは往々にしてそんな評価をされる事があるが、そういう事なんだろうと私は理解をした。

 この壮年部になった頃、私は転職をしていたので以前の様な忙しさは無くなっていたが、勤務地が遠くなったために平日に活動する事が難しい状況はあまり変わりがなかった。しかし仕事帰りには白ゆり長の家に立ち寄っては、何かと食事を御馳走になったり、白ゆり長夫妻と様々な懇談をした。この老夫妻は草創期から活動をしていて、子供たちは既に独立していて、この時には年金生活をしていた。白ゆり長はこの時、新聞多部数購読の負担について心情を漏らしていた。要は複数部取るのは組織の打ち出しだから信心として捉えているが、やはり年金生活の身では厳しいと感じる事もあるとの事。またこの当時は小泉政権の時代であり自公連立政権という中で、自民党支持については納得していない部分もあると言うのだ。しかしこのメッセージを組織の中に伝える事は出来なかった。何故なら支部内の地区部長や地区婦人部長は「550万部維持こそが広宣流布で大事」という認識であり、自民党支持についても公明党・創価学会が自民党を利用しているという意識であった。だから小泉総理から学会記念行事に対して聖教新聞上でメッセージが出ているだけで大喜び。その為の多部数購読と自民党支持の認識で既に固まっていたからだ。私が支部長に意見をしても「斎藤、これが広宣流布の現実の姿なんだ。もう青年部時代の様に甘っちょろい事を言うのはやめろ」と釘をさされてしまうという始末だった。

 またある時、日曜日の早朝に地区部長から連絡が入った。なんでも地区の拠点としていた個人会場が借りれなくなってしまった。これは魔が出来してきた姿だとの事。だから斎藤君も日曜日にのんべんだらりとしているのでは無く、活動にどんどん入らなければダメだというのだ。しかし話をよく聞くと、魔の出来というものではなく、要は地区部長が言葉が足りない事から会場提供者である壮年部員を怒らせてしまい、結果として会場は今後貸さないとなった様なのだ。であれば地区部長が一言謝罪をして、もう一度関係を修復すれば良いだけだと思ったのだが、地区部長を始め多くの幹部がその地区部長の意見に同意しているので、これはもうどうにもならない状況となっていたのである。

 この壮年部で広宣長時代。これ以外にもくだらない事は多々あった。壮年部の幹部同士、上下の立場の下らない拘りとか、職員幹部への忖度など。あげたらキリがないほど多く見てきた。私が青年部時代に「広宣流布の理想」として教えられた事のうち、この壮年部の世界で通じるものは少なく、地区やブロックの人達は言われた事をこなす事だけが信心と捉えるのが精一杯。また区や県幹部については殿上人の様に見てその言に従う。政治にしても公明党や創価学会の打ち出しについて批判する事も許されず、意見を言っても「理屈をこねる前に新聞啓蒙1部やってから者を言え」という風潮。これのどこが広宣流布なのか。
 青年部の時には蒼い話だが広宣流布という事について縦横無尽に語らったものだが、壮年部に入るとそんな事を語らう場もなければ、そもそも人もいない。皆が皆、目の前の「組織の打ち出しをこなす事」だけで精一杯で、数字的な事を如何に対応するかという事だけで目一杯なのがよくわかった。

 こんな時ふと思った事があった。そういえばインターネットの中では、創価学会とはどの様に書かれているのか。多くの幹部は事あるたびに「ネットはデマばかりだから見ない方が良い」とか「悪知識に絆されるのでネットは見るな」。ましてやネットに情報発信するのはトンデモない事だという意見もあった。私が壮年部に移行した時期、ネットには掲示板やブログがあるのは知っていたので、少しここでネットで創価学会はどの様に語られているのか、ちょっと腰を落ち着けて調べてみようと思ったのである。

 実はこれが私にとって、創価学会や日蓮に対する意識の大きな転換をもたらすきっかけにもなっていった。


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