さて先の記事では、日蓮が開目抄では法華経が正法なのは一念三千が明かされているからであると述べていた事を紹介、その一念三千の事について少し書かせてもらいました。
ここで書いているのは、今の段階で私が思索して「こうなのかな」という内容を書いていますので、あくまでも私見です。私見ですが、仏教を自分の生きる糧とするのであれば、思索する事はとても重要だと、私は考えています。
創価学会では日蓮の文字曼荼羅を「一念三千の当体」という事を言っています。つまり正法の当体が日蓮の文字曼荼羅だと言うのです。
正法を信じるという創価学会、そしてその信仰の中軸にはこの日蓮の文字曼荼羅(御本尊)を置いています。牧口・戸田会長の時代から平成の中頃まで、創価学会では賢樹院日寛師の教えに基づき、大石寺にある大本尊を「根源の本尊」として信じ、各家庭にある本尊は「義理の本尊」としてきました。
しかし2014年の会則改正に伴い、教義改正が為されて、この大石寺の大本尊を「受持の対象としない」旨を宣言、会員の本尊観をひっくり返す様な改正を行ったのです。
この教義改正では、日蓮直筆の本尊はすべて「事の本尊」であるとし、そこから言えば大本尊も事の本尊という事では変わりないのですが、日寛師がいう様な「事中の事の本尊」であり「根源」という捉え方を止め、全て平たく「事の本尊」にしたと言っても良いでしょう。
創価学会の中で、御本尊(文字曼荼羅)はどういったものなのか、幹部に聞くと微妙なところで答えがばらばらになります。これは創価学会の中で文字曼荼羅の位置づけを明確に教えていないからなのです。創価学会ではよく次の日蓮の言葉を引用して文字曼荼羅を語ります。
「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」(経王殿御返事)
要は「日蓮大聖人の魂が、この御本尊様なのだ」という事でしょう。
でも「一念三千の当体が御本尊」という言葉を言いながら、では日蓮の十界文字曼荼羅がどの様に一念三千とリンクしているのかについて、明確に答えれる人は創価学会にはいません。
まあ多くの学会員にとっては、御本尊とは「功徳聚」と考えていますが、これは日寛師の観心本尊抄文段にある次の言葉によっています。
「故に暫(しばら)くも此の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざる無く、罪として滅せざる無く、福として来たらざる無く、理として顕われざる無きなり。」
つまりどんな祈りでも叶うし、罪障も消えるし、福運も付くというありがたい御本尊様という事なのでしょう。それではまるで「有難い御札」なのですが、そんな理解をしています。そしてこれは創価学会だけではなく、日蓮正宗関係者は、みなこの認識であると思います。
創価学会では「功徳」という事を「御利益」として教えています。だからどの様な個人的な願望も、この御本尊に祈れば全てが叶うと勘違いをしています。日蓮が語っていた「祈り」とは、基本的には「法華経の行者の祈り」であり、ご利益を求める祈りとは違います。そもそも功徳聚はご利益とは別モノなのですが、先の日寛師の文言によって、このあたりを大いに誤解しているのではありませんかね。
日蓮の文字曼荼羅は、法華経の虚空会の姿を曼荼羅として顕したものです。この事について、日蓮は日女御前御返事という御書の中で、次の様に語っています。
「爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹天親等天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を末法二百余年の比はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり、是全く日蓮が自作にあらず多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すりかたぎ(摺形木)たる本尊なり」
過去の龍樹菩薩や天親菩薩、また天台大師や妙楽大師も顕さなかった大曼荼羅(文字曼荼羅)を日蓮は末法のはじめに「法華経弘通のはたじるし」として顕したとここで言っています。そしてこの本尊は日蓮が勝手に作り出したものではなく、多宝塔中の釈尊や分身仏の姿を描き顕したものであると述べています。多宝塔が出現したのは虚空会なので、この事から文字曼荼羅とは虚空会の儀式の姿だと言うのが理解できます。
「されば首題の五字は中央にかかり四大天王は宝塔の四方に坐し釈迦多宝本化の四菩薩肩を並べ普賢文殊等舎利弗目連等坐を屈し日天月天第六天の魔王竜王阿修羅其の外不動愛染は南北の二方に陣を取り悪逆の達多愚癡の竜女一座をはり三千世界の人の寿命を奪ふ悪鬼たる鬼子母神十羅刹女等加之日本国の守護神たる天照太神八幡大菩薩天神七代地神五代の神神総じて大小の神祇等体の神つらなる其の余の用の神豈もるべきや、宝塔品に云く「諸の大衆を接して皆虚空に在り」云云、此等の仏菩薩大聖等総じて序品列坐の二界八番の雑衆等一人ももれず」
ここでは御題目を中心として釈迦多宝の二仏並座と地涌菩薩の上首の四菩薩をはじめ、様々な菩薩や二乗、そして諸天善神や魔や悪鬼などが、この曼荼羅に書き顕されているだけでなく、日本の神々ももれなくこの曼荼羅に書き顕されている事を述べています。しかし日蓮の顕した文字曼荼羅の何れを見ても、けして全てを文字として書き表していない事は判ります。つまり意義としてそういう文字曼荼羅であるという事なのでしょう。
「此の御本尊の中に住し給い妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる是を本尊とは申すなり。」
これら全ての仏菩薩や二乗、諸天善神や悪鬼魔物、またここで「住し給い」とありますが、それはこの文字曼荼羅を拝する一人ひとりも全て含めて、この文字曼荼羅の題目に照らされる事で「本有の尊形(本来あるべき尊い形」になると言うのです。
ここで日蓮は「本有の尊形」と言いますが、それを示したのが一念三千という教理だと私は考えています。
前の記事に「九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて真の十界互具百界千如一念三千なるべし」という日蓮の言葉を紹介しましたが、これが一念三千の指し示した要点であり、それを具体的に日蓮が「本有の尊形」としてシンボル化(はたじるし)としたのが、日蓮の文字曼荼羅ではないでしょうか。
人生には様々な出来事があります。それは良きにつけ、悪しきにつけ様々な事があります。しかし一念三千から見れば、これらの出来事にはそれぞれに「本有の尊形」とも言うべき事がある。もしくはそういった出来事を無意味な事ではなく、全てを意味ある事にする事ができるという事になります。
この文字曼荼羅により、それ拝した人が少しでもその事を理解して欲しい。そう言った意味合いがあるのではないでしょうか。
確かに日蓮が文字曼荼羅について、その他の事を書いている箇所もあります。しかしそれは相手(対告衆)によって、投げかけている目的があり、あえて比喩を交えている事もあるでしょう。私は日蓮の文字曼荼羅については、最近ではこの様に考えているのです。
単に信徒を祈祷師の様にしたり、ご利益を求めるためのツールとしたりして、それにより自教団や自宗派に縛り付ける為のものではありません。
(続く)