今日は子供と昼間は外出していました。東京都や大阪など四都府県で「緊急事態宣言」が発令されている影響もあってか、車の台数も控えめに見え、渋滞など特になくスムーズな移動が出来ました。しかし緊急事態宣言と言っても、目立っていわれるのが、いわゆる飲み屋などの飲食業の事ですが、例えば通年のインフルエンザ流行の場合には、幼稚園や保育園、また小学校と言った子供たちの集団生活の場であったり、職場では密室の会議や、同じ部屋で行う業務での感染というのが結構あったと思いますが、そこへの対処はどうなっているのでしょうか。
新型コロナ禍というのは、この辺りを考えてみても、どうも恣意的な部分が多くある様に思えてならず、であればこそ、一人ひとりが「正しく賢く怖がる」事を心がけるしかないと思っています。
いま私は自分自身が学んできた仏教関係を見直す意味を含めて、ホームページ形式で様々な事をまとめ始めています。ある程度、まとまった処でこの内容は公開したいと思いますので、よろしくお願い致します。
私は創価学会関係の事では、言いたい事が山ほどありますが、そればかりに時間を費やすというのも、これはこれで時間の無駄だと感じています。それよりも自分が信じようとした事、学びたかった事について、自分なりに見直しをする事を主題としてホームページを利用してまとめたいと考えています。
ここ数日は、時間を見つけては仏教のインドから中国への伝播について、資料関係を見ていましたが、そこで考えた事について今回は記事にしてみます。
◆仏教とは分派と土着化の中で拡大した
これは何も仏教だけではなく、世界中にある宗教全般についてもいえる事だと思いますが、仏教の歴史を見ると、分派と土着化の中、多くの人達の中に広まってきています。
例えば初期仏教で、釈迦入滅直後から仏教教団は分派した事は以前にも紹介をしましたが、釈迦の教えとは常に「対機説法」という、悩める人達を相手に法を説いてきた事から、普遍的な言葉ではないものでした。第一回の経典結集では、この対機説法で残された釈迦の言葉を、普遍的な内容にしてまとめるという事に主眼が置かれたのかもしれません。しかしこの結集した「教え」を解釈する中で、仏弟子達は分派を始めたのです。
この分派を「部派仏教」と言いますが、当時は仏弟子たちの中で様々な論争を起こしたのかもしれません。ただ結果としてこの部派仏教として分派した中で仏教は「釈迦の言葉」から思想的な深みを増したという事もあったのではないでしょうか。
またこの仏教が、中央アジアに進出していたギリシャ人社会の中に広まる事で、仏像というのも出現しました。もともと原始仏教では「獅子座」とか「ストゥーパ(仏舎利塔)」が信仰の対象だったのですが、ギリシャ人はこの信仰対象として釈迦の仏像を造り出したのです。これにしても当時、仏教界の中では「おきて破り」であったかもしれませんが、以降、仏教の伝播はこの仏像と共に進んで行きました。
そして中央アジアからシルクロードを経て、紀元前後に中国に仏教は伝播をしましたが、その際にも中国の人々が仏教を理解する上で、もともと中国にあった儒教や道教等を利用する事で広まりました。それにより老子や荘子といった、元々中国にあった様々な思想も仏教に混入し、その逆に儒教や道教にも仏教は影響を与えました。その結果「格義仏教」というものが中国に生まれ、またサンスクリット語にはない中国独自に撰述された「中国撰述経典」というものも生まれたのです。
その後、五世紀から六世紀あたりになると、中国には多くの経典が流入し、インドで発生した経典とは異なる時系列で伝播してきた事もあり、漢訳された経典の前後の繫がりについて混乱が始まり、それを整理し、より仏教の理解を深めるために「教相判釈」という事が盛んにおこなわれる事になったそうです。天台大師智顗は「五時八教」という事で整理をしたのも、この為であったと言われています。
この中国で儒教や道教と交じり合い、土着化した仏教が、百済を経て日本国内に流入する際に、鎮護国家の仏教という色合いが付いて伝播したのは、前の記事でも紹介した通りです。ただこれらから見えるのは、けして仏教とは一本筋の通った針金の様なものではなく、その一本筋を中心として、様々な人が様々に考証を重ねて作り上げられた思想であり、けして単一なものではないという事が理解できると思います。
創価学会の教学の基礎は、大石寺の教学で、そこには賢樹院日寛師の教えが色濃く残っていますが、考えてみれば大石寺を始めとして、日蓮の弟子の一人の日興師の門流の教学の中心は、賢樹院日寛師の前は、京都要法寺の日辰師の教学であった事は既知の事実です。この日辰師の教学の中心の一つに「造仏論議読誦論議」というのはありますが、この内容は日寛師のものとはかなり異なります。日寛師の教学とは江戸時代中期頃、富士門流の中にあった「天台宗回帰」の風潮に乗り、中古天台を中心に組み上げられたのは、多くの研究論文の中で語られています。
良いのです。それぞれの人が、どの様に教えを解釈して組み上げていくのか。仏教という宗教でもそれが元来から許されてきたと私は思うのです。そして歴史の中で、不要と考えられたもの、これは仏教ではないと思われたものは捨て去れて行くし、新しい考え方は仏教の中に組み入れられていくのでしょう。またそこには民族性や土着文化なども関係してくると思います。
◆謗法厳戒について
大石寺やその教義の流れを受けている創価学会でも「謗法厳戒」という四文字の言葉が語られています。これは「間違った教えば許さない」という事を端的に示す言葉です。では「間違えた」「正しい」は、一体どこを見て判断するのでしょうか。「それは経典によるんだ!」「文証・理証・現証の三証により判断するのだ」とよく言いますよね。ではそもそも「妙法蓮華経」というのは、成立当初から不変の教えだったのでしょうか?
妙法蓮華経が成立したのは、釈迦滅後五百年を経過した時代だと言われています。これはつまり釈迦の時代には成立していないという事になります。また大石寺などで「教相判釈」で「五重の相対」を騙りますが、その基礎となるのは天台大師智顗の「五時八教」です。しかしこれにしれも天台大師が生きたその時代の中に置いて、仏教の世界という限られた枠内の話ではないでしょうか。
私が何を言いたいのか。それは「不変で絶対なものはない」という事です。思想や宗教というのは、時代により変化をし、その変化には民族性やその時代の社会に状況が色濃く関係してきます。またそれが反映する事で、人々の中に仏教は受け入れられるのであろうし、そこから新たな思想というのも生まれてくるのでは無いでしょうか。
恐らく法華経にしても、原始仏教の中から、そういう事で誕生した経典なのではありませんか?
「謗法厳戒」という事は、古式ゆかしい化義を残す事に、一定の功はあったのかもしれませんが、その一方で「新たな潮流を生む」という動きを厳しく封じ込めてしまったという罪の部分もあるのではないでしょうか。私はその様に思うのです。
そう言えば創価学会が弘安二年の大本尊を「受持の対象としない」という方向転換をした際に、「謗法の地にあるから」という理由を着けていますが、この単純な言葉の中に、私は創価学会の硬直化したものを見て取っています。これでは創価学会が衰退するのも当然なのかもしれませんね。
そもそも人生にとって大事な事は、一人ひとりがどの様に、この人生を受け止めて行けるのか。そこだと思います。私達は宗教の為に生きている訳ではありません。宗教とは私達がよりよく生きる為のツールであり、役に立つ部分は利用すれば良いであろうし、不要であれば、その部分は捨て去ればいいだけなのです。本来、宗教とはそういうモノではないでしょうか。ただそれをされると困るのは「宗教の権威を笠に来た聖職者や宗教貴族」です。だから彼らは様々な「脅しの言葉」を以て、人々を縛り付けようとする。
「謗法厳戒」の四文字も、そんな言葉ではないでしょうか。
宗教を信じるのは一人ひとりの「信教の自由」に関わる事ですが、賢く生きて行きたいものですね。