先週は仕事が忙しく、中々ブログを更新する暇が無かったので、少し間が空いてしまいました。でも暇を見てツイッターを覗いてみては、凝り固まった日蓮仏教思想の日蓮正宗の人達や、まったく教学に興味をみせず、ただ選挙活動だけにご執心の創価学会の活動家の発言を見て、かなり歯がゆく感じたりもしていました。
私自身、まるで「亀の歩み」の様にですが、仏教の歴史を振り返ってみたりしていますが、そこで見えてくる仏教の姿とは、創価学会の中で教わったものとは全く別の姿であり、一応、この私も「青年一級」の教学部員であったのですが、まったくもって仏教の歴史の表面すら知らなかった事を、改めて感じています。
◆日蓮正宗の教学は唯一絶対ではない
これは幾度もこのブログでは触れている事ですが、少し書いてみます。創価学会は、そもそも日蓮正宗という一宗派から派生した教団であり、その根底に流れているのは日蓮正宗の教学となります。日蓮正宗では自分たちが信じている「日蓮仏法」こそが仏教の唯一正統な教えであり、それ以外は全て「邪宗(最近の創価学会では他宗と呼称していますが)」であり、その根拠としているのが、開目抄などから編み出した「五重の相対」という理屈です。
この「五重の相対」とは、仏教と他の宗教を相対する「内外相対」、仏教の中でも小乗経と大乗経を相対する「大小相対」、大乗経でも権経(法華経以外)と実経(法華経)を相対する「権実相対」、実教でも本門と迹門を相対する「本迹相対」、また本門でも脱熟(釈迦の教え)と下種(日蓮の教え)を相対する「種脱相対」と言う様な、それぞれ比較し最終的には日蓮を本仏とした南無妙法蓮華経こそが唯一正しい教えだと言っています。この五重の相対の中でも「権実・本迹・種脱」という三つの相対を「三重秘伝」と大石寺貫首の賢樹院日寛師は呼んでいました。
しかし落ち着いて考えてみれば、始めの「内外相対」と呼んでみても、日蓮の時代に言われていた「外道」とはバラモン教の教えや儒教、道教などの教えが精いっぱいで、今の人類社会にある耶蘇教(キリスト教・イスラム教・ユダヤ教)については範疇外であり、彼らを日蓮の言葉で説得も出来なければ破折する事も出来ません。何故ならそもそも発生起源が違うので、論理的に鎌倉時代の言葉では語れないのです。
また以降の「大小相対」から「本迹相対」までの基礎は、天台大師智顗による「五時八教」の考え方から派生しているもので、この五時八教についても、天台大師が法華第一を証明する為に構築した論理であって、釈迦一代の説法が、必ずしもこの五時八教に合致するものではなく、あくまでも一切経典を分類整理する理論というものでしかないのです。
◆法華真実の言葉について
大乗仏教の経典の中で、法華経が最高の教えという事は、かなり以前から大乗仏教の中では言われてきていました。その事について天台大師智顗は経典を駆使して論理だてしています。その中で証明する経文としては、法華三部経とされてる経典の開経として位置づけられている無量義経にある「四十余年・未顕真実」という言葉を用いています。
ただこの無量義経というのは、とても謎の多い経典で、他の経典については原本としてサンスクリット版による原典が存在していますが、この無量義経だけは曇摩迦陀那舎という者が訳したとされていますが、今に至るまで漢訳されたものしかありません。法華経においてもサンスクリット語版があるにも関わらず、何故、無量義経にはサンスクリット語が無いのでしょうか。また無量義経の終わりでは、法会は散会しており、法華経の序品第一では参集した状態で始まっており、三部経とするには、流れの整合性が取れていない事は、天台大師の時代から指摘をされていました。しかしその点については、今流で言えば「細かい事は良いんだよ」程度でしか反論をされていないのです。
その様に考えると、確かに天台大師智顗が構築した五時八教というのは、優れたものと思われますが、それが即ち釈迦から連綿とつながった正統性を持つものでは無い事が判ります。
◆法華経の価値
では、「だから法華経もマヤカシもの」だと私は言うつもりはありません。何故なら近年、欧米などで研究されている「臨死体験学」をはじめとした人間の心に対する研究や洞察、また深層心理学などから見えてくる、人の心の構造や「自我」に対する考察の内容と、法華経に説かれている「久遠実成の釈尊」の観点は、とても親和性があると感じますし、その内容が仏教を釈迦が説きだした後、五百年ほど経過をした時代に、経典として説かれていたという事を考えてみると、人の心を説いたものとしては、かなり先進性のあるものであったと、私自身は感じています。
ただ、だからと言って、この法華経を誇大解釈して「宇宙の根本の法則」と読んでみたり、仏の悟りを直説したという、あまりにふんわりとした言葉でまとめ、しかも歪な解釈と凝り固まった教条主義で、この法華経を理解するというのは、結果として法華経の心(本義)を壊していると私は考えています。
簡単に言えば、日蓮正宗や創価学会は、この法華経の価値というのを、理解している様に見せかけていますが、実は何も理解していないという事でしょう。
いま人類は過去に類例のない大変革期に来ています。この時代にあって、古代中国の解釈や、鎌倉時代の言葉でしか語れないというのは、とても残念な事だと思います。
仏教思想とは、そもそもが「演繹法」による思想なので、例え同じ経典を解釈するにしても、解釈者の持つ理解度や知識力によって、その内容は天地雲泥の開きが発生してしまいます。もしそれを理解しているのであれば、何時までも教条主義的なゴリゴリ宗教解釈ではなく、もっと自分自身の知識を耕し、常に思考を動かして考えていく。その様な姿勢が必要なのではないでしょうか。
ちょっと五時八教に絡んで考えてみた事を、今回は書いてみました。