自燈明・法燈明の考察

仏とは救済者ではないと思う

 今年も早いもので、間もなく1月が終わりますね。こんな事を毎年言っていますが、年齢を重ねる毎に時の過ぎ去るスピードが上がっている感じがします。だから日々大事に生きる事を常に心に留めて置きたいものです。

 さて、法華経を通してこれまで諸法実相と仏と言う事について考えを巡らしてきました。そしてそこで思ったのは、仏とは救済者の事を指しているわけではないと言う事です。

 この事ですが、実は私が創価学会の中で青年三級という教学を学んだ時から少し違和感を感じた事から始まりました。それは五重の相対という中で「内外相対」という事を聞いた時、仏教とは「己心の内側」に道を求めるから内道と呼び、その他の宗教は「己心の外側」に道を求めるから外道と呼ぶと教わりました。しかし一方で創価学会では「願って叶わざる無しの御本尊」と呼び、何か問題とかあるとすぐに「御本尊様に祈りなさい」と教え、「御本尊様に必死に祈れば必ず叶う」と教えられてきました。でもここで言う「御本尊」とは、もとは日蓮の顕した文字曼荼羅であり、その文字曼荼羅に御すがりする事は「内道」とは違うのではないかと率直に感じたのです。

 日本国内の仏教全般に目を転じてみると、多宗派でも様々な如来を本尊として「無病息災」「健康長寿」なんて祈り「この〇〇如来様にはご利益がある」なんて事をよく言っていますが、これについても結局、仏を仏像としてそこに願掛けをしている事自体、これも外道にあたるのでは無いかと思いました。
 創価学会に目を戻すと、婦人部(現在は女性部とか呼んでますが)の大幹部なんかも「困ったときには”御本尊ちゃま!お願い!叶えて!!”と御すがりすれば、祈りは必ず叶います」なんて大きな会合で指導していましたが、これなんかも外道ですよね。

 仏教の淵源を振り返ってみれば、釈迦は苦行の末に見切りをつけて、菩提樹の下で瞑想し、降魔した後に明けの明星を見て「悟り」を開いたと言います。そしてそこで悟った内容を、まずは苦行林で共に修行をした五人に語り、彼らを悟りの道に入らせた事を始めに、多くの人達の中で悟った法による対話を繰り返し多くの人々を救済したと言われています。この「釈迦は多くの人々を救済した」という事実から、「仏とは救済者」という事になり、結果、現在に至り「仏様は人々を救済する」という姿になったのでしょう。

 しかし前の記事にも紹介しましたが、法華経如来寿量品第十六で、この仏という境涯の考え方は大きく変わりました。それは「悟りを開き苦悩を越え、煩悩を滅尽した境涯」という事ではなく、「人の心の本質的になる識(阿摩羅識)」という事として説かれました。人の心の本質的な識であるので、悟りを開いたから「仏」、悟りを開いていないから「凡夫」という境涯的な建て分けという事も無意味になり、久遠実成という事から、「悟り」とは既に人々の心の本質的なところにあって、要はその心の本質を理解するか、しないのかという事の違いでしか無くなったのです。またそこそもの悟りについて、如来寿量品第十六では以下の様に説かれています。

諸の善男子、如来諸の衆生の小法を楽える徳薄垢重の者を見ては、
是の人の為に我少くして出家し阿耨多羅三藐三菩提を得たりと説く。
然るに我実に成仏してより已来久遠なること斯の若し。

 ここでは徳も薄く垢の重い人々(要は自分を卑下し低く見ている人たち)が、小さな法、これは目先の出来事を解決するための法と言ってもいいかと思いますが、それを求める人たちの為に釈迦は方便として、出家して修行した後、悟りを得たと教えていたと言うのです。しかし実はその悟り自体は既に久遠の昔に得ているのだと説いています。

 つまるところ、仏とは救済者という事では無いと私は思うのです。

 ただこの久遠実成の釈尊という存在(仏界)は、人々を救済する姿として現れる事もありますが、逆に救済を求める姿としても現れる事もあるし、場合によっては悪鬼魔民の姿として現れる事もあるのでしょう。これについては十界互俱百界千如の事を考えたらそうなります。地獄界の俱する菩薩界、また菩薩界の俱する修羅界。また日蓮の文字曼荼羅の相貌を見てみれば、生命を食い荒らす十羅刹女やその母親である鬼子母神が認められている事にそういう意義もあっての事だと思います。そして日蓮のいう様に。

「此の御本尊の中に住し給い妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる是を本尊とは申すなり。」

 南無妙法蓮華経という観点に立てば、それらすべてが「本有の尊形」という、すべての苦悩も本来あるべき尊い意味合いを以って人生の中にある事が理解できると言うのです。

 つまり救済者は自分自身の中にあり、けして自分以外に「仏が救済者」という事では無いのです。この様になってこその「内道」としての仏教の教えとなるのではないでしょうか。

 いまXを見ると、これは創価学会の活動家に顕著な例ですが、日蓮の文字曼荼羅をさも「全ての願いを叶え、人々を救う御本尊様」と呼び、そこに「煩悩則菩提」という仏教用語を括り付け、さも「祈る」事ですべての事が丸く収まり解決できると考え、その「祈る」ための手段として「選挙」とか「新聞拡張」、ましてや「折伏」なんていう新規会員勧誘活動があると言っています。でもこれは単に「外道」の考え方であって、仏教の「内道」と捉え方とは全く別義なものなので、まずはそこに気づいて欲しいものです。

 この「気付き」を得られない限り、「歓喜の中の大歓喜」なんて言葉に踊らされ、結果、信濃町に勤務している宗教貴族の飯のタネに人生を終える事になってしまうでしょう。要は宗教の美名に踊らされ、人生を食い尽されて終わってしまいます。

 ちょっと考えてほしいものですね。


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