自燈明・法燈明の考察

事と理について④

 当時(2007年頃)はブログのサービスが始まった頃で、多種多様なブログがあり、GoogleやYahooで「創価学会」というキーワードで検索掛けると多くのブログがヒットした。創価学会を持ち上げるもの、否定するもの、調べなおして入るものなど、それこそ多くのブログが存在した。
 それらブログの中で、関西の壮年部が主催しているブログがとても共感出来る記事内容だったので、読みながらコメント欄を通じて様々な人との交流が始まった。このブログ主は関西の壮年部で人脈も広く、そこには元青年部県幹部や婦人部でも第一線で長く活動していた人、また職員関係者も参加していてコメント欄で喧々諤々の議論の応酬をしていた。

 そんなある時、ブログに参加している婦人部が創価大学のスクーリングで八王子に来るので、一度会って意見交換しないかと誘いがあり、夜に八王子近辺のファミレスで会うことになった。どうやら私のブログへのコメントで興味を持ったようだった。

 ファミレスで会ってみると、この婦人部は女子部から活動をしていた人で、現在は組織活動は止めているとの事だった。仕事は看護師をしているが、創価大学の通信教育は続けているという、見た感じ芯の強そうな女性だった。
 「斎藤さんは池田先生をどう思っている?」
 その様に聞かれた時、自分が知りうる池田大作という人物像を語り、世界での実績や各著名人との交流を語り、その思想性について私は語った。今なら語らない事だが、当時はそれこそが事実だと信じて、その人物像を師匠と信じていたのだ。
 するとこの婦人部は具体的な「池田大作」というのを語ってくれた。それは具体的な関係者の名前を挙げたエピソードを交えつつ、私よりも遥かにリアルな池田大作の人物像だった。また本来の大乗仏教の「依法不依人」の原則を用いながら、創価学会で言う「師弟不二」の矛盾点も突いて来たが、これには広宣部経験者の私は二の句もつげなかった。何故ならば自分の中でもモヤモヤとしている内容をずばり指摘されたからだ。

 このファミレスでの出会いは私の中にある創価学会の組織への信頼感に大きな波紋を起こすものだった。

 この出会いがあってから少し経った頃、この当時、創価学会では折伏戦という活動の最中、相方の白ゆり長が地区で最初の折伏を決めた。そして何故か私のブロックが数字的には先駆するという事になっていた。広宣長の私は殆ど活動は出来ていないのに。
 この白ゆり長の折伏した相手はご高齢の方だったが、入会理由は白ゆり長夫妻の仲良さだったと語っていた。そんな人間関係が持てる信仰なら入ってみたいというものだった。
 そして御本尊授与式では支部から多くの活動家が参加し、支部長を始め支部婦人部長、地区部長や地区婦人部長が口を開くと白ゆり長の信心を褒め称える言葉を言っていた。そこには以前、私に白ゆり長のクセの強さを苦々しく指摘していた表情はなく、皆が満面の笑顔で白ゆり長の信心の姿を持ち上げていた。正直、この幹部たちの姿を見ていた私は物凄く気持ちが悪くなった。

 これが本当に人間共和の組織の姿なんだろうか。組織の求める結果を出した時だけ称賛し、それ以外で自分達に不都合な事を指摘されると「クセがある人」「生命が曲がっている」と平気に言える人達の集まり。これは私が県幹部の時に見てきた組織そのままの姿ではないか。やはりこれが創価学会の持ち合わせる組織文化だったのか。

 こんなモヤモヤな気分であった時、支部長から呼び出しを受けた。支部長宅に行ってみると「斎藤もそろそろ地区部長をやってみないか」という話だった。
 この支部長をしていた先輩は、私が男子部当初から知っている人だったので、再度この際だから以下の件についてそのまんまぶつけてみた。

・聖教新聞の多部数購読はおかしな活動ではないか。550万部維持と言っても、それは単に経済的な負担を会員に押し付けているだけで、結果、会員を悩ませているに過ぎない。またこれはマスコミ各社への誹謗中傷に対する対策かもしれないが、所詮は資金的な抑えでしかならず、広宣流布という観点から言えばマスコミへの誹謗中傷は言論で応じるべき。お金で抑えたところで本質的に封じる事にもならない。

・選挙で自民党支援についてもおかしな話で、結果、公明党は集票組織としか見られておらず軽んじられている。これは将来的にも公明党・創価学会は権力に利用されるだけで終わってしまう。

・創価学会の現場組織を見れば若手の人材は減少し始めており、根本的に対策をしていかなければ、この先、組織の衰退を止める事は出来ない。そういう意味でも会員(特に幹部)はよく社会を見据えて考え、これからあるべき姿は考えていかなければならないのではないか。

 そしてその上で私が地区部長になった際には、まず新聞多部数購読は廃止する。そうすれば新聞の実態から組織の現状も見えてくるだろう。また公明党支援は行うにしても自民党支援は行わない。会員を政治の道具のまま進めるのはおかしな話だと考えているからだ。それも良いのであれば地区部長はお受けします。如何ですかと支部長に問いかけた。
 すると支部長からは。
「じゃあ、お前いらないよ」
 という返事が来た。まあこの先輩とも二十年近く付き合ってきたが、私の思いを理解するには至らなかったのだろう。当然と言えば当然の話だが、少し寂しく残念でもあった。またここで「いらないよ」と言われた事で、私の中で組織に対する未練が切れた感じがした。帰宅後、嫁には「もう学会活動は止める事にした。自分は今の組織には害を与えても必要とされないようだから」と伝えると、嫁は短く「そうだね」と答えてくれた。

 その後、組織活動から一切の手を引くことにした。支部長はそのあと、一度だけ私の家を訪れてきたが、すでに「いらない」宣言をしたのだから、もう放って置いて欲しいとだけ言い帰ってもらった。私が担当していた組織は私の地元ではなく派遣として離れた地区であったが、それから間もなく私の統監は地元組織に戻される事になった。その後、幾人かの幹部も訪問してきたが、私は訪問してきた幹部に持っている疑問や、その実例などについて指摘をしたが、それに対する明確な回答もなく帰っていた。また以前にも紹介した区長との対話で「たとえ池田先生が極悪人であろうと、付き従うのが信心だ」という事を言われたのもこの時期であった。

 ここで私は組織からは完全に離れてしまった。しかし組織の中ではあらぬ噂話も広められていて、すでに「斎藤は信心弱く負けた者」「忘恩の輩」的な噂話も耳に入ってくる様になった。でもそんな事はどうでも良いと思っていた。ただ私自身、四半世紀近く関わってきた創価学会での事で、池田大作という人物と、日蓮大聖人とは何を残したかったのか、そこだけはどうしても知りたくなった。

 そこでここからネットを通じて知り合った人たちに直に会い、話を聞く事を始めるようになった。必要であれば大阪まで自腹で出かけた事も度々あったし、休日には地元の公立図書館に通い様々な文献をあさり読む事を始め、必要な資料があれば国会図書館に行って収集する事も始める様になった。この時期に、故・友岡雅弥にも直接会って話す機会を得たり、また信濃町本部に勤務をしていた人、小説・人間革命に紹介されたエピソードの御家族、またとある某中央幹部の家族や公明党地方議員の家族で創価大学出身の人など、実に様々な人たちに会う事も出来た。

 そんな事を数年間にわたり続けてきた結果、創価学会や池田先生と呼ばれている人の実像をようやく自分の中で理解する事が出来たし、日蓮大聖人と言う鎌倉時代の僧についても、より実感を持って見られる様にもなってきた。
 そして今では組織信心という「絆し(しばり)」から自由になった事を実感している。ただし一つだけ。「信心」とか「信仰」そして「宗教」というものは一体何なのか、そこは私の中でも中々答えを出せずにいた。もうここ数年、既に朝晩の勤行や唱題という事も止めていたし、創価学会の中で教えられた「自行」という事についても必要性を感じなくなっている。でもそれを止めたとして、やはり自分の人生や、やがて来るであろう「死」という現実に向かい合った時、それをどの様に自分自身の中で消化をして行って良いのか。そこについての回答は全く得られていない。ただ創価学会で活動をしていた頃よりは、そのあたりは見えてきた事もあるので、そこについて次回からは具体的に書き連ねていきたいと思う。そしてそれこそが私にとっての「事と理」という話にもなってくると考えている。


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