自燈明・法燈明の考察

本尊開眼という事について➂

 前の記事では仏像の前に経典を置く事、また読経する意義について、木絵二像開眼之事を通して読んでみました。つまり仏の姿の特徴である三十二相のうち、仏像や仏画では三十一相まで再現できるが、「梵音声」という事は生身の仏に叶わない。でも仏前に経典を置くと、経典が「梵音声」となり、意義的には三十二相を具足する事になる。また仏像の前で経典を読誦するのは、仏の色心を具足する事になるという事でした。

 この木絵二像開眼之事を「偽本尊」の文証として引用する法華講の人達は、そもそもこの御書にあるこの内容を理解しているのでしょうか。恐らく理解はしていないと思います。何故なら創価学会を批難する為に「切り文」の引用元の御書でしかないので、御書にあるそういった日蓮の思想性については考えても居なかった事でしょう。

 相手の間違い(と自分達が思っている事)を指摘する為に、御書を読むという事は、この様にあまり意味のない事なのですが、その辺りについても、少しは気づいてほしいと思います。

 さて、木絵二像開眼之事について、進めて行きます。

3.草木成仏について

(本文)
故に天台の釈に云く「請を受けて説く時は只是れ教の意を説く教の意は是れ仏意仏意即是れ仏智なり仏智至て深し是故に三止四請す、此の如き艱難あり余経に比するに余経は則易し」文此の釈の中に仏意と申すは色法ををさへて心法といふ釈なり、法華経を心法とさだめて三十一相の木絵の像に印すれば木絵二像の全体生身の仏なり、草木成仏といへるは是なり、故に天台は「一色一香無非中道」と云云、妙楽是をうけて釈に「然るに亦倶に色香中道を許せども無情仏性は耳を惑わし心を驚かす」云云、

(現代語訳)
故に天台大師の釈には「請いを受けて説く時には、ただ是は教えの意義を説くのである。教の意義とは仏意であり、仏意とは即これは仏智なのである。仏智というのは至って深いもので是が故に三止四請したのである。この様な艱難があって余経と(法華経を)比較するに余経は即ち理解しやすい」とある。この釈の中にある仏意というのは色法を押さえて心法という釈である。法華経を心法と定めて三十一相の仏像仏画の像に印すればこの仏像仏画が生身の仏となるのである。草木成仏というのはこの事である。故に天台大師は「一色一香無非中道(いかなる些細な存在にも中道の真理が備わっている)」と言われている。妙楽大師は是をうけて釈に「然るにまた俱に色香中道を許すといっても、無情に仏性が俱わるというのは耳を疑わし心をも驚かすのである」と言うのである。

 ここで述べているのは、三十二相のうち三十一相を持つ仏像や仏画に法華経を心法として「印」すれば、それは全体が生身の仏となるという事で、これこそが草木成仏という意義に当たる事を述べています。
 ここで「印する」とは如何なる事なのかを少し思索してみたいと思います。大辞林によると「いん・する【印する】」という単語には4つの意味があると言います。
 ①印や型を押す(押印等の意味)
 ②しるしを残す、跡をつける
 ➂影や光をモノの上に届かせる
 ④強い印象を与える
 この4つの意味のうち、ここでいう「印する」とは「➂影や光をモノの上に届かせる」という意味合いが一番適切なものと思われます。日蓮は天台大師の釈で「仏意というのは色法を押さえて心法という釈」をここで引用していますが、この意味とは法華経は仏意の経典であり、その仏意とは色法(姿や形)を押さえて、その色法に心法(心の働き)を与える事だと述べていますが、それを「印する」という事で、ここで述べていると思われます。
 つまり法華経に述べられている仏意こそが、その仏像や仏画に仏の心の働きを持たせる事が出来る経典であり、それを草木成仏だとここで述べているのです。

 よく法華講では「御本尊様に仏様の魂」と言いますが、この木絵二像開眼之事によれば、経典として法華経を置く事で、それが梵音声の代わりとなり、またそこで法華経を読経する事から、仏像が仏となる事を「草木成仏」と日蓮は言っているのです。

 ここの部分を思索すれば、法華講の捉えている草木成仏という事とは異なるのが解ります。簡単に言えば草木とは能動的な仏ではなく、私達がある形式のもとで草木で造られた仏像に相対する事で、そこに仏としての力用が現れる事を述べているのです。

 こういった事を前提に、「開眼」という事も考えなければならないのです。

4.他宗派による開眼

(本文)
華厳の澄観が天台の一念三千をぬすみて華厳にさしいれ法華華厳ともに一念三千なり、但し華厳は頓頓さきなれば法華は漸頓のちなれば華厳は根本さきをしぬれば法華は枝葉等といふて我理をえたりとおもへる意山の如し然りと雖も一念三千の肝心草木成仏を知らざる事を妙楽のわらひ給へる事なり、今の天台の学者等我一念三千を得たりと思ふ、然りと雖も法華をもつて或は華厳に同じ或は大日経に同ず其の義を論ずるに澄観の見を出でず善無畏不空に同ず、詮を以て之を謂わば今の木絵二像を真言師を以て之を供養すれば実仏に非ずして権仏なり権仏にも非ず形は仏に似たれども意は本の非情の草木なり、又本の非情の草木にも非ず魔なり鬼なり、真言師が邪義印真言と成つて木絵二像の意と成れるゆへに例せば人の思変じて石と成り倶留と黄夫石が如し、法華を心得たる人木絵二像を開眼供養せざれば家に主のなきに盗人が入り人の死するに其の身に鬼神入るが如し、今真言を以て日本の仏を供養すれば鬼入つて人の命をうばふ鬼をば奪命者といふ魔入つて功徳をうばふ魔をば奪功徳者といふ、鬼をあがむるゆへに今生には国をほろぼす魔をたとむゆへに後生には無間獄に堕す、

(現代語訳)
華厳宗の澄観が天台大師の一念三千を盗んで華厳宗の教義に差し入れ、法華経と華厳経ともに一念三千であると言い、ただし華厳は頓頓の教で先に説かれ、法華経は斬頓の教で後に説かれた事から、華厳経は根本で法華経は枝葉だと言って我は理を得たと思っている人は山の様にいる。しかりと雖も一念三千の肝心・草木成仏を知らない事を妙楽大師は笑ったのである。今の天台の学者等も我は一念三千を得たりと思っているが。そうであっても法華経をもって、或いは華厳経に同じとか大日経に同じだと言っており、その義を論じると華厳宗の澄観の見識を出ていないし、真言宗の善無畏三蔵と同じ事を言っているのである。詮を以てこの事を云うのであれば、今の仏像仏画を真言師により(開眼)供養したのであれば、実仏ではなく権仏であり、権仏でもなく見た目の形は仏に似ていても、その意義は非情の草木でしかない。また元の非情の草木でもなく魔であり鬼なのである。真言師が邪義でる印真言となって、仏像仏画の意義となるからである。例えば人の思いが変じて石になった倶留外道と黄夫石のようなものである。法華経を心得た人が仏像仏画を開眼供養しないのであれば、家に主なく盗人が入り、人の死んだ時にその体には鬼神が入る様なものである。今真言宗によって日本の仏を(開眼)供養するのであれば鬼が入り人の命を奪う、この鬼は奪命者というのである。魔が入り功徳を奪う、この魔は奪功徳者と言うのである。鬼を崇めてしまうがゆえに今生には国を亡ぼし、魔を尊ぶ故に後生には無間地獄へと堕ちてしまうのである。

 ここで他宗派が(ここでは華厳宗と真言宗を挙げていますが)、仏像や仏画に開眼供養すると、それは姿や形が仏であったとしても、その心となるのは法華経とは異なる事から、逆にその仏像や仏画は仏とはならずに魔や鬼となると述べているのです。
 これはやはり一念三千の理を知らず、法華経と余経で説かれている事の違いも判らずに、その間違えた理解がそのまま仏像や仏画の意義となって印する事から、この様な厳しい指弾の言葉となっていると思うのです。

 つまり草木成仏は木や草、絵などが仏の姿であっても、それに相対する人の心によっては、実際に仏にもなれば、悪鬼にもなるというのです。ここでは「開眼」と言っていますが、それは印する、つまりその仏像等と相対する人の心がどういった理解をしているのか、認識をしているか、そこが大事だという事なのです。

5.死骨供養について

(本文)
人死すれば魂去り其の身に鬼神入り替つて子孫を亡ぼす、餓鬼といふは我をくらふといふ是なり、智者あつて法華経を讃歎して骨の魂となせば死人の身は人身心は法身生身得忍といへる法門是なり、華厳方等般若の円をさとれる智者は死人の骨を生身得忍と成す、涅槃経に身は人身なりと雖も心は仏心に同ずといへるは是なり、生身得忍の現証は純陀なり、法華を悟れる智者死骨を供養せば生身即法身是を即身といふ、さりぬる魂を取り返して死骨に入れて彼の魂を変えて仏意と成す成仏是なり、即身の二字は色法成仏の二字は心法死人の色心を変えて無始の妙境妙智と成す是れ則ち即身成仏なり、故に法華経に云く「所謂諸法如是相[死人の身]如是性[同く心]如是体[同く色心等]云云、又云く「深く罪福の相に達して�く十方を照したまう微妙の浄き法身相を具せること三十二」等云云、上の二句は生身得忍下の二句は即身成仏即身成仏の手本は竜女是なり生身得忍の手本は純陀是なり。

(現代語訳)
人が死すれば魂が去り、その体には鬼神が入れ替わり子孫を亡ぼすのである。餓鬼というのは自分自身を食らうというのはこの事である。智者がいて法華経を讃嘆して骨の魂とするのであれば、死人の体は人の体、心は法身となる。生身得忍という法門はこの事である。華厳や方等、般若の円教を悟れる智者は死人の骨を生身得忍とする事ができる。涅槃経に体は人の体と言っても心は仏の心と同心というのはこの事である。生身得忍の現証は純陀である。法華経を悟った智者が死骨を供養すれば生身は即法身となり、是を即身という。去ってしまった魂を取り返して死骨に入れて、この魂を変えて仏意とする。成仏とはこの事である。即身の二字は色法、成仏の二字は心法。死人の色心(体と心)を変えて無始の妙境妙智とする、是が即ち即身成仏なのである。故に法華経には「所謂諸法、如是相[死人の身]如是性[同じく心]如是体[同じく色心等]」とある。また「(仏は)深く罪福の相を達して遍く十方を照したもう。微妙の浄き法身は相を具せること三十二なのである」とある。上の二句は生身得忍を示し、下の二句は即身成仏を示している。即身成仏の手本は竜女であり、生身得忍の手本は純陀なのである。

 ここでは木絵二像の開眼に関連して死骨(遺骨)供養の事について述べられています。木絵二像については三十二相のうち、三十一相は仏像で表現されているが、梵音声は具えられず、そこを補完するのがその木絵二像の前に置く経典であり、この経典を法華経とする事で、木絵二像は生身の仏と同じになるという事でしたが、ここでは死骨(人の亡骸、骨)に法華経による供養をする事で、即身成仏となるという事を述べるのです。またここで即身成仏と共に生身得忍という事を述べています。

 法華経でいう即身成仏とは、ここでも述べられていますが、提婆達多品で説かれている竜女の姿が手本であると言います。龍王の娘である竜女は、この提婆達多品において一切衆生の救済を決意し、釈尊に宝珠を供養、その後「変成男子(男子に変わり成り)」して即時に成仏の姿を示しました。

 また生身得忍というのは、無生法忍という悟りの極果を生身のまま得る事を云います。生身とは父母から生じた肉体を指し、この手本は純陀であると言うのです。

 純陀とは、入滅間近の釈迦が自分の果樹園で休息している事を知り、釈迦にキノコを使った料理を供養したところ、釈迦は腹痛に襲われ発病、その後に入滅してしまいます。その為に純陀は釈迦への最後の供養者となったのです。老齢の釈迦が純陀の供養した料理を食した事で発病した事で、釈迦は弟子のアーナンダに以下の言葉を語ったと言われています。
「いいかアーナンダ、きっと誰かが言い出すだろう。『純陀が毒料理を食べさせたせいだ。純陀は徳のない悪党だ』と。しかし、それは間違いである。私は、純陀の料理を最後の供養として逝くのであるから、第一にこの生涯のさとりを大成させ、第二に大般涅槃に至らせてくれたのである。この供養は、私が受けた供養の中でもスジャータ(成道の際に最初に乳粥の供養を捧げた女性)のものと並び、我が人生の供養の中で最も重要なものである。大いなる威徳がある供養だ。純陀は大いなる威徳を積み、偉大な尊者となるべき偉業を成し遂げたのだ。純陀を恨む者が現れたなら、よく諭すのです。」

 そして総括として「布施を実行する者こそ功徳あり。貪り・怒り・痴を超越し、人心を超える」と宣言したと言われています。

 この最後の事については、どちらかと言えば僧侶が葬儀等に関係し、そこで読経する意義を述べている事から、私個人としては少し胡散臭い内容にも感じてしまいます。まあ草木成仏の「おまけ」程度で読んでおけば良いくらいの内容と思います。

 これで木絵二像開眼之事の内容は終わります。
 この事から「開眼供養」について、もう少し思索を進めて行きたいと思いますが、そこは次回にします。ただここまで読んで思うのは、大石寺では第17世の日精師の時代に「釈迦仏造立」で大揉めに揉めた歴史があります。しかしそもそも日寛師以前の教学の主流は日辰師の教学であり、そこでも釈迦仏造立について述べています。
 それ以前に日蓮の時代にも、日蓮が文字曼荼羅を顕して以降の時代、門下の四条金吾が釈迦仏像を造立し、その開眼供養を日蓮に相談、日蓮は快諾しているのですが、法華講などはこの事についてどの様な見解を持っているのでしょうか。

 木絵二像開眼之事とは仏像や仏画に対する見解であり、ここで日蓮はその事自体を謗法とは全く述べていないのです。この御書を「切り文」で創価学会の文字曼荼羅を「偽本尊」を指摘するのは良いのですが、その前に、自分達の宗派としての本尊観について、この木絵二像開眼之事を元にしっかりと再考する必要があると思いませんか?

(続く)


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