日蓮正宗系の宗教や創価学会では「勤行」というお勤めがある。私がこの勤行をやり始めたのは小学6年生の頃だった。当時、私の母は体調も悪く、何かと体調不良となり夜に病院に行く事も度々あった。そんな時に母親から頼まれたこともあり、お題目を唱えたり、朝晩の勤行も母親に促されやる様になったのである。
まあそれから勤行する事は生活習慣の中に組み込まれ、毎朝登校する前には「五座の勤行」、就寝前には「三座の勤行」をやる事になった。ただこの勤行では法華経の方便品第二、寿量品第十六を繰り返し読経するのだが、ではその読経する経典に何が書かれているのか、そこは全く理解できなかった。経文には「死」とか「病」という漢字もあるが、これは一体どんな意味があるのか、その事を母や兄に聞いても答えてもらえず、未来部の時に先輩に聞いても作法として必要と言われるだけで、当時の私にとっては経文を読む事は「呪文」を唱える事と何ら変わらなかったのである。
私が創価学会で男子部となり、教学を教えられる中で教えられたのは、この勤行の形を決めたのは牧口会長だと言うことだった。今から想うとそれも本当なのかと思うが、要は元々は日蓮正宗の僧侶は、毎朝、寺院境内の5箇所を回りながら、場所場所で法華経の方便品と寿量品を読み題目を唱える事を修行として行っており、夜は同じ様に3箇所を回りながら読経唱題をしていたと言う。これを在家信徒でも出来る様に形式的に定めたのがこの勤行だと言うのだ。だから「座(場所)」として朝は五座、夜は三座と定められたとか。
聞く処によれば、昭和三十年代の頃は、それぞれの座で方便品第二、寿量品第十六(長行込み)と唱題百遍やっていたので、朝の勤行で一時間、夜の勤行で三十分は掛かったそうだ。しかしそれではやはり日常生活に支障があると言うので多少簡略化した内容にしたそうだ。それは各座で行う題目百遍を省き五座の後にまとめ、二座以外では寿量品の長行は読まなくしたというのである。この形式の勤行を私は小学6年生の頃からやっていたのである。
これで朝は三十分、夜は二十分に短縮されたが、私が社会人となり仕事で遅くなった時には「題目三遍ご勘弁!」としたり、朝の勤行をしないで出勤する事もままあった。ただし勤行を省くと自分の中に後ろめたさが付きまとい、朝は早起きする事に努めもしたが、同じ男子部の仲間の中には通勤中に「誦(呟く)の勤行だ」なんていう人もいたのである。
今の私はこの勤行を既にやらなくなって久しいが、活動を止めたばかりの頃は、学会活動家の知人等から「勤行だけでもやっているよな?」と聞かれることも多々あった。要は信仰の根幹は止めていないよなという確認をしたかったのだろう。要はこの勤行こそが一番大事という事なのだろう。しかしこの勤行で読む経文の意味を、私に問う人たちの殆どが理解していない。果たして理解しないで呪文の様に経文を唱える事に、どれだけ意味があるのだろうか。
この経文を読む行為について、宗祖と言われる日蓮はどの様に語っていたのか、そこは「木絵二像開眼之事」に書かれている。詳細は御書全集を読んでもらいたいが、ここでは仏像の意義について書かれており、仏像を作ることで、三十二相の仏の姿を、ほぼ現すことが出来るが、唯一出来ないものは「梵音声」という相だという。そしてこの梵音声に成り代わるのは経典を仏像の前に安置する事で、これにより三十二相の姿は完成するというのである。そしてここで経文を読むことは、自身の声ではあるが、それは仏が説法している事と同じ意義があるというのである。だから勤行についてもこれと同じ意義だというのだろう。
しかしこの意義からすると、経文を呪文の様に唱える事にどれだけの意義があるのか。堅樹院日寛師は六巻抄の中で助行と位置づけ、要はお酢でおかずの味付けを助けるような事だと述べている。しかしそれでは先の日蓮の御書の経典や読誦の意義とは異なる事になるが、果たしてそれが意味がある事なのだろうか。
少し角度を変えて考えてみたい。良くスポーツの世界などでは、試合に勝つために勝ちのパターンをイメージし思い込む事が大事だと言われ、それと共に声に出して「勝つ!」という事を自身の中に叩き込む事が大事だという話もある。要は声を出すことは、この声で語る言葉の意味も大事だと言う事だ。まさか勝ちたい試合の前に、負けをイメージするネガティブな言葉を出すバカな選手はいない。
先の御書にある日蓮の言葉を考えるなら、読経とは仏の声ということだが、まさか釈迦が弟子たちの前で、弟子たちも解らない呪文を説いていたとは考えられない。詰まる所、勤行する場合、やはり読む経文の意義くらいは理解している事が大事なのではないだろうか。
これは勤行で読経する事についての話だが、お題目(唱題行)についても同様な事が言えるのではないだろうか。
南無妙法蓮華経という題目について、過去に創価学会の池田氏は、著名なバイオリニストであるメニューイン氏との対談の中で、宇宙のリズムとか律音(前向きになるリズム)という事を語っていた。しかしこの題目を詠むのに「なむ・みょうほうれんげきょう」と発音する事が大事なのだろうか。しかしながらそれを語った池田氏の発音は「なん・にょーほーねんねぎょー」という発音であったし、長時間に渡り繰り返し唱える人の中には「なんもれんこ」や「なんみょれんぎょ」という発音をする人、また「ろんろろんろ」となっている人もいたりする。
もし題目を唱えるのに、音律が大事と言うならば、創価学会としても唱え方について会員にはしっかりと教える必要があると思うが、そんな指導性は過去に見当たらない。どちらかというと、どれだけ長時間唱えたかを重視している位であろう。
この題目の意味は、南無とは古代インド語の「ナム(帰依します)」という発音を漢字に当てたもので、つまりは妙法蓮華経(法華経)に帰依しますというものになる。ではその妙法蓮華経(法華経)とは如何なる経典なのか、そこを知らないとこの題目の言葉についても、いくら呪文の様に唱えたとしてそこに意味はないのではないか。私はその様に思う。
この様な事を書くと、恐らく創価学会の信徒たちからは「お前は何も解っていない!」とか、「私はこの勤行唱題により大きな功徳を得たのに、お前に何が解るのだ!」とお叱りを頂くだろう。しかし私も過去に創価学会で活動をしていたし、彼らのいう功徳(御利益)の経験も幾つかある。しかしながらそう言う信仰体験とは、宗教の教えと言うよりも、そこに対する強い思い込みと、ある意味で「祈りは叶うんだ!」と強く信じる事で体験する事なのではなかろうか。何故ならこう言った信仰体験は何も創価学会だけの専売特許ではなく、彼らが敵視している日蓮正宗や顕正会、はたまたキリスト教やイスラム教でもあり得ることだからだ。
「いやいや、彼らは功徳ではなく魔の通力に拠るもので功徳ではない」と言うのかもしれないが、そうであればその違いを理解させるためにも、やはり自分達が信じている教え、勤行という角度で言えば、法華経についての深い理解が必要なのでは無いだろうか。
以上、私が勤行について考える事をつらつらと書かせて頂いたが、やはり行として勤めるのであれば、そこには対象となる経典に対する理解は必要であり、そこがないからこの勤行する人にであっても、その人の人格の厚みや薄さ、常識度、社会性や言論に対する姿勢など、様々な差分も起きてしまうことや、場合によっては「本当にこの人は仏教を信奉しているのだろうか」といった違いも出てきてしまうのではないか。今一度、考えて欲しい事である。