法華経とは大乗仏教の最高の経典と言われていて、チベット語にも翻訳されたものがあると言いますから、その内容は仏教の中の大乗経典の中では、多くの人達から支持されていた経典のようです。
法華経の成立についての詳細は大乗仏教の勃興と同じ時期とも言われていますが、現代では既に二千年程の時が経過しているので、明確に解る事は無いと思います。これは一つの説ですが、大乗仏教が勃興した頃、仏教徒の間では釈迦に直接あって教えを請いたいという人が多くいて、そんな人達の中では瞑想の中で釈迦に会って教えを受けたという人達が居たそうです。そしてそんな人達が瞑想の中で聞いた釈迦の教えを記録していて、それらが元になり成立したのが法華経だという話がありました。
恐らく大乗経典の多くは同じ経緯の中から紡ぎ出されたのではないかと、私なんかは思うのですが、どうなのでしょうか。
恐らくインド応誕の釈迦は、法華経という教えを説いていないと思います。仏教は釈迦滅後直ぐに部派仏教として多く分派しましたが、その中で残された釈迦の言葉を元に多く議論され、そこから大乗仏教も発生したのであろうし、法華経もその過程で成立したというのが、一番妥当な考え方だと思います。
この法華経を巡る事で興味深いのが、初期の法華経には提婆達多品というのは無かったという事です。鎌倉時代の日蓮は、この提婆達多品から女人成仏と悪人成仏という事を語りましたが、この提婆達多品は法華経成立後、ある程度時間が経過してから組み込まれた様なのです。
これは法華経の漢訳版である「妙法蓮華経」の提婆達多品を読んでみると、よく分かることですが、文脈や内容が、他の品とは少し異なっているのです。
一説によれば、実は仏教教団の中には提婆達多教団というのが存続していて、大乗仏教の教団とこの教団が和解した際に、この提婆達多品が法華経の中に組み込まれたのでは無いかと言われています。まあこれも一つの説ではありますが、とても興味深い説ではありますね。
いまの日本の仏教で語られ、日蓮も主張した法華経最第一という理論を構築したのは、中国の天台大師でした。かれが大乗仏教を理論的に整理をして、五時八経というふうに分類し、無量義経・法華経・観音経を法華三部経として固めました。しかし五時八経も、教えの内容によりあたかも時系列の様に整理をされていますが、これが歴史的な事実では無いのです。そもそも釈迦は法華経を説いていないのですから。また無量義経についても、サンスクリット語の原典は存在せず、漢訳のみしか存在していないのです。
恐らく天台大師は自身が感得した大乗仏教を、既存の経典から構築したのであり、それは仏教の史実とは異なるものであったと思います。しかし一方では大乗仏教の意義には、かなり沿っていたのかもしれません。
この様な事をつらつらと考えてみると、法華経というのは確かに素晴らしい教えを含んでいますが、その経典を金科玉条の様に敬い、信じるという姿勢は少し違うかなと思うのです。日蓮は日本の仏教を法華経を中心としたものにすることで、社会が安寧になると考えていました。しかしその一方では「余経も法華経も詮無し」といい、ただお題目だけを勧めてもいました。
思うに法華経の経典を大事にし、鎌倉時代の僧侶の言葉を鵜呑みにしたところで、いまの人類社会の抱える問題なんて解決しないし、単に長い時間、その法華経の題名に南無するなんて繰り返し唱えたとしても、人生が救われる事なんて無いでしょう。
ただ法華経が説きたかった事、そこにある物語を通して示される事には、とても大事な事があるのかもしれません。
そんな事を考えたりしています。