今日は休みの中日で、世間的には平日ですが職場では有給休暇をとって四連休にしている人も多く、かなり平和な日になっています。そんな中ですが、朝からニュースバラエティを見ていたら、お得意の新型コロナ禍の件と、全豪オープンテニスで大阪なおみ選手が優勝した件を扱っていました。
番組では、全豪オープンテニスではどの様に新型コロナ対策をしていたかをやっていましたが、それと同じ事を日本政府は東京オリンピック・パラリンピックでも行うつもりなのでしょうか。全豪オープンの主催者は、日本が公表しているオリンピックのコロナ対策の内容を「これで対策が出来るとは思えない」と酷評していた様ですが、世界的な大会で、様々な国の人達を招待して開く大会なんですから、よほど対策をしっかりしないと開催は出来ないでしょう。菅総理は「新型コロナに人類が勝利した形でオリンピックを行う」なんて言っていますが、どこまで現実を見ているのか、大いに疑問なんですけどね。
またこれから開催に拘り、微に入り細に入り対策をした場合、そこで追加で発生した費用は、結果として日本国民に「増税」という事で跳ね返ってくるのではありませんか?
もしそうなら、新型コロナ過でこれだけ疲弊している社会を、このオリンピックが追い打ちをかけて破壊する事になりはしないか、とても危惧をしています。
さて今回は少し創価学会周辺の人物模様について考えてみたいと思います。
先日、遠山清彦氏が辞職しました。まあキャバクラのお金まで政治資金で支出していたのですから、当然の事かと思いますが、こんな国会議員の醜態は何も遠山氏だけの話ではなく、過去から公明党には多くあった事です。
戸田二代会長の言葉を借りると「政治を監視しなければならない」という筈なのですが、今の創価学会の組織はそんな事を行う事が出来ません。私自身、地元組織の壮年部幹部に指摘をした結果、「お前はいらない」と言われましたので、まったく下らない組織となったもんです。
そんな創価学会という宗教団体の周辺には、様々な人がいます。これは「バリ活動家」「アンチ学会員」含めて、本当に様々な人が存在し、様々な意見を発信している状況です。この周辺にいる人達を、今回は以下の観点から少し分類してみたいと思います。
◆X軸:池田会長への依存度(高⇔低)
◆Y軸:日蓮への依存度(高⇔低)
◆Z軸:組織への依存度(高⇔低)
三つの軸を考えてみると、分類としては8象限のものになります。
①池田会長への依存高、日蓮への依存高、組織への依存高
②池田会長への依存低、日蓮への依存高、組織への依存高
③池田会長への依存高、日蓮への依存低、組織への依存高
④池田会長への依存低、日蓮への依存低、組織への依存高
⑤池田会長への依存高、日蓮への依存高、組織への依存低
⑥池田会長への依存低、日蓮への依存高、組織への依存低
⑦池田会長への依存高、日蓮への依存低、組織への依存低
⑧池田会長への依存低、日蓮への依存低、組織への依存低
昔の創価学会の組織であれば、活動家は間違いなく「①」であったと思います。日蓮は根源の師匠であり、御本仏。そして池田会長とは大先達の代表として人生の師匠であると信じ、その池田会長が命を懸けて守り抜いた組織は、最大に守り抜かねばならない。少なくとも私が男子部になりたての頃には、そんな人達が幹部の中でゴマンと居ました。
では今の創価学会の活動家はどうなのでしょうか。私が思うに「➂」だと思います。今から十年程前から言われた「師弟不二」という概念から、今では池田会長が組織の中で「人本尊」として敬われ、創価学会を守らねばならないという人が多数います。そしてこの様な人達が、公明党をも熱烈に支援しているのが今の創価学会という組織ではないでしょうか。
アンチ創価学会のスタンスはどうかと言うと、組織依存度が低い分類の集まりであると思うのです。象限としては「⑤~⑧」という象限です。その背景には今の創価学会の組織は「昔とは違う」という幻想を持っている人達も多くいると思いますので、例えば「DAKKAN」という言葉を用いて、組織を正常化したいと考えている人も入ります。要は今の組織は「ダメ」だと考えている人達ですね。
そんな中で「池田会長」と「日蓮」を共に大事に考えている人達が居たり、「池田会長」への依存は高いのですが、「日蓮」にはそれほど依存をしていない人というのも現実に居るわけでで、また逆に「日蓮」は大事だと思いながら「池田会長」への依存度が低い人も居るわけです。
だからアンチ創価学会と言っても「⑤~⑦」の中では、様々な内輪もめを起こしてしまったりしているのではないでしょうか。
まあ私は男子部なりたての頃には「①」でしたが、活動家幹部をやっているうちに「➂」に移り、壮年部となってからは、結果10年近く時間をかけて「⑧」への移り、今では池田会長も日蓮も、そして創価学会という組織にあまりこだわりを持たない立場になっています。
まあこれは創価学会の周辺に居る人達の「切り分け方」の一つの視点であって、これが正鵠を得ているとは思いませんので、ご参考程度にしていただけたら幸いです。
ただ私は「⑧」の立場になり、様々な事を以前よりも創価学会の組織のバイアスに関係なく見る事が出来た事で、多くの事に気付きを得る事が出来ました。思うに宗教というのは、いずれの宗教であっても似たような構造が在る訳で、それらに執着を無くさないと、実はその宗教の本質というのは見えてこないものなのかもしれませんね。
依存を断ち切る(執着を捨てる)というのは、実は大事な事なのかもしれません。